
桜石&小梅







***
「……旅行?」
小首をかしげたユズルに、多香菜は満面の笑みを返す。
「大学の友達と2泊3日の温泉旅行に行くことにしたの。お互い、就職先も決まったからそのお祝いでね」
「あたし知ってる! 温泉って、おっきいお風呂のことでしょ? あたしも行きたいなあ」
「行ったって、俺たちは入れないだろお」
一人暮らしのマンションの一室は今日もにぎやかな声で満たされている。気持ち良さそうにラグマットの上で寝そべるまろの尻尾には、先程からピンク色の毛玉がじゃれついて離れない。
穏やかな休日の午後。点きっぱなしのテレビからは、どこそこで強盗事件が起きただの、交通事故が多発しているだの、およそ自分達とは関係のないニュースが流れている。
誰もその内容には目もくれず、淡々としたニュースキャスターの声は風変わりなBGMとして皆の耳を通り過ぎてゆく。
「ふふ。お土産、何がいいかな?」
「温泉まんじゅう!」
「もう。それ貰っても、あたしたちは食べれないでしょ?」
呆れたような口調で桜石が窘める。埒の明かない様子の二人を見やり多香菜がくすくすと笑い声をあげた。
そしてそのまま、視線はユズルへと向けられる。
「ユズルくんは? お土産、何が欲しい?」
「え? ……えっと」
小さく唸りながらユズルはしばらく考え込み、やがて首を横に振った。
「……いらない。そのかわり、旅行のお話いっぱい聞かせて」
「土産話ってやつかあ。ふふ、そんなので良ければいくらでも」
多香菜が柔和な笑みを浮かべる。その笑顔を見るたび、胸の中に何か温かいものが流れ込んでくるような感覚にユズルの頬が熱を持った。
***
乳白色の石畳を三人並んで歩く。二人の獣が尻尾を揺らしながらその後に続く。
任務を終え、三人で多香菜のもとへ遊びに行くのは最早恒例のようになっていた。数日おきに顔を見せる子どもたちを多香菜はいつも変わらぬ笑みで迎え入れる。
「それにしても、桜ちゃん大分多香菜さんと打ち解けたよなあ。初めて会った日とかすっごい怖かったぞ」
「あ、あれは……! ってゆーか、忘れてよそんなこと!」
頬を赤くして桜石が声を荒げる。その隣でふふ、と小さな声があがった。
「ねえ、バンタ。桜石ったら、あの後ね……」
「ちょっと!! ダメダメ絶対言わないで!」
ぎゃあぎゃあと揉み合いになりながら三人の子どもが歩を進める。その様子を見守る黒い獣は安堵の色を浮かべて目を細めていた。
「なーんか、ジメジメ男ってば最近あんまりジメジメしなくなったのね」
「ああ。……なんだか不満そうだな?」
「だって、桜石ってばいつも口を開けばジメジメ男のことばっかりなのよ! もともとそうだったけど、アイツがジメジメしなくなってからもっともっとヒドイのよ!」
「……ほう」
興味深そうにまろが小梅を見やる。口を尖らせ、小梅はその大きな瞳を桜石に向けた。
「……そりゃ、ジメジメ男がジメジメじゃなくなったのは良いことだと思うのよ。でも毎日のようにノロケ話を聞かされるアタシの身にもなってほしいのよ」
「お前も苦労しているんだな。いつもキンキン騒いでるだけかと思ったぞ」
「何よそれ! どーいう意味なのよ!」
キンキンと甲高い声を上げて小梅がまろに飛びかかる。体格差のせいか、傍目から見ればそれは大型犬にじゃれつく子猫のようだった。
騒がしくなった背後を見やり桜石が腰に手をあてる。
「もー。小梅ってば本当に血の気が多いんだから」
「いいんじゃない? 何だか、まろも楽しそうだし」
「そーいえば小梅も最初まろのこと怖がってたよなあ。……まあ、俺もだけど」
バツの悪そうな笑みを浮かべて頭をかくバンタを見やり、「そういえばあたしも」と桜石も笑う。
子どもたちの笑い声と二匹の獣がじゃれ合う声が乳白色の空間に響く。
辺りはすっかり暗くなり、澄んだ空気が広大な建物を包み込んでいた。
***
早朝のやわらかな日差しが辺りを照らす。しんとした空気と頬を刺す痛みが、秋の終わりを感じさせた。
まるで壁のように眼前に広がるのは街の中央に鎮座する広大な駅であった。迷路のように張り巡らされたコンクリートは駅と直通しているバスターミナルへと伸びている。
まだ人の影もまばらにしか存在していないその敷地内に紺色の衣服をまとった三人の子どもの姿があった。
人間の視界には映らないはずの少年少女たちだが、バスターミナルの影に身を隠すようにして寄り添い合い、壁に背中を預けている。
「ふあ、あ……」
大きな口を開けて丸々と太った少年が周りの空気を飲み込むかのような大あくびをする。
眠たそうにごしごしとこすられた瞼はぴったりと閉ざされ、少年の大きな体はそのままゆらゆらと船をこぎ始めた。
「ちょ、ちょっとバンタ寝ないでよ! 見送りに来たいって言ったのバンタじゃん!」
「……だってよお。こんなに朝早いなんて聞いてないぞ」
桜石に肩を揺すられバンタの瞳が薄く開かれる。もう、と呆れたような息を吐く少女の隣でユズルも眠そうに顔を曇らせた。
「……ねえ、なんで僕たち隠れてるの?」
「そうだよお。多香菜さんに会わずに帰るのか?」
少女の左右からとぼけた声があがる。
この二人はどこまで寝惚けているのか。憤りを感じつつ桜石は両側の少年の頬をむに、とつまんだ。
「もう! 二人とも起きてよ! 今日、多香菜は友達と一緒に旅行に行くんだよ? あたし達の姿は多香菜にしか見えないんだから、その友達の前で多香菜があたし達と会話したり何かリアクションしたりっていうのは不可能になるわけ。わかる? こっそり影から見送るのが一番なの」
「……なるほど」
「桜ちゃん、アタマ良いなあ」
じんじんと痛む頬をさすりながらユズルとバンタが納得したようにうなずく。小さく溜息を吐いて桜石も壁にもたれかかった。
・
・
・
車のエンジン音がウトウトと船を漕いでいた三人の耳に飛び込む。
体を預け合って座り込んでいた子どもたちの瞼がうっすらと開かれ、虚ろな瞳が朝焼けの街をぼんやりと映し出した。
「あれ……。……あっ!」
はっ、と目を見開いて桜石が慌てた様子で立ち上がる。急に支えを失くした少年たちの体がぐらりとバランスを崩し――……次の瞬間ごちん、と鈍い音が響いた。
『……いっ…………たああ~!』
激しくぶつけた頭を抱えユズルとバンタが声を揃えて悶絶する。激痛に体を震わせている二人をよそに、桜石は身を隠していた白い壁からそろりと顔を覗かせバスターミナル内に視線を這わせた。
一台の高速バスが発着場に停車している。たくさんの荷物を携えた乗客たちが一人、また一人とバスに乗り込んでいく。
その列の最後に見慣れた顔を発見し、桜石は安堵の息を吐いた。
「ユズル、バンタ! 間に合ったよ!」
押し殺した声で二人を手招きする。頭をさすりながら目に涙を浮かべていた二人は、その声に顔を見合わせると腰を屈めて桜石の後ろからターミナル内を覗きこんだ。
大きな鞄とキャスターを提げた多香菜が穏やかな笑みを浮かべている。そしてその視線の先にいる人物を見やり、ユズルは小さく息を飲んだ。
すらりと高い身長に整えられた清潔感のある黒い髪。およそ想像していた人物と180度違うその風貌に、三人の顔に困惑の色が浮かぶ。
「……あれ、多香菜さんの友達って、男だったのか?」
「っていうか、“友達”っていうより、“彼氏”ってやつじゃない? デートだ、デート!」
きょとんとしたバンタの声。少し高揚した桜石の声。
放たれた言葉がまるで針のようにちくちくとユズルの胸を刺す。
(なんだ……これ……)
初めての感覚にユズルは戸惑いを隠せないでいた。多香菜が笑うたび、隣の男が微笑むたび小さな痛みが増していく。
バスの側面で大きく口を開けているトランクへ荷物を押しこみ、多香菜と男がバスに乗り込む。荷物を手放して暇を持て余したその手は、しっかりとお互いを繋ぎとめていた。
大勢の人を乗せたバスがゆっくりと発車してゆく。迷路のように張り巡らされた道路を迷いなく進み、大通りへと合流し、やがて三人の視界から完全に姿を消した。
ゆっくりと身を隠していた影から這い出し、バスが消えて行った道路の先を見やる。
日の昇りきった街はすっかり本来のにぎわいを取り戻していた。急ぎ足の人々がターミナルの片隅で立ち尽している子どもたちの体をすり抜け、駅へと駆けこんでゆく。
興奮を抑えきれない様子の桜石が興奮気味に跳びはねては声を弾ませた。
「ねえねえ、見た見た!? 多香菜と彼氏さん、超ラブラブって感じだったよね!」
「そ、そう……だね」
なんとか平静を装ったもののユズルの表情はどこかぎこちない。それをからかうようにバンタがニヤニヤと笑みを浮かべながら友人の肩を肘でつつく。
「なんだよお、ユズル。なにショック受けてんだ?」
「ち、ちがっ……そんなんじゃないよ!」
ムッとした表情を浮かべながら慌ててユズルが否定する。尚も笑いながら「顔が赤いぞ」とバンタが付け加えると、目の前の少年は慌てて紺色のフードを被り顔を隠す。
次の瞬間、桜石とバンタが腹を抱えて笑いだした。
誰の耳にも届かない笑い声が晴れ渡った空へと吸い込まれてゆく。一日はまだ始まったばかりだ。
・
・
・
すっかり高くなった太陽が乳白色の世界を照らす。任務の入った桜石とバンタに別れを告げ、ユズルはひとり長い廊下を歩いていた。
眼前にそびえ立つのはユズルとまろがいつも任務を受けに行く仕事場である。これから行うことに少し気が滅入るものの、ユズルは以前と比べて大分前向きに任務に向かえるようになっていた。
「……ユズル!」
前方から飛び出してきた影にユズルは足を止め声の主を見やった。黒い毛並みの獣が血相を変えてユズルに駆け寄る。
「まろ。ちょうど良かった。探してたんだ」
「……任務を受けに来たんだろう?」
「うん」
ユズルがうなずくとまろの金色の瞳がゆっくりと下を向く。苦しげな表情を浮かべ、ユズルから顔をそむけたまろの声は震えてかすれていた。
「……ユズル。落ち着いて、よく聞いてくれ」
「え?」
ただ事ではないまろの様子にユズルも眉をひそめる。言葉がまるで大きな塊のように喉でつかえ、息をするのも一苦労だった。
自身を落ち着かせるように大きく息を吐く。訝しげに首を傾げているユズルの瞳をまっすぐ見上げ、ゆっくりと、ゆっくりと言葉を吐き出した。
「……次の任務。ターゲットは……多香菜だ」
時間が止まったと錯覚するほど、辺りは静寂に包まれていた。
否、ユズルの耳が、思考回路が、すべての音を、情報を受け入れるのを拒否していた。
ユズルの任務。ターゲットの魂を迎えに行く。
それはつまり多香菜の死を意味していた。
「……うそ、だ……」
信じられなかった。ついさっき、多香菜は三人の目の前にいたのだ。愛する人の隣であんなに幸せそうに笑っていたのだ。
嘘だ、嘘だ。冗談だと言ってほしい。
しかしいくら懇願してもまろは俯いたまま力なく首を横に振るだけだった。
「……嫌だ。どうして、多香菜が……?」
「ユズル。前にも言ったが、これは俺たちの力でどうにかなる問題ではない。多香菜の命が今日尽きることは、最初から決められているのだ。……辛いのは、俺だって同じだ……」
震える息を吐いてユズルがその場に崩れ落ちる。紺色のローブがふわりと風を含んでひるがえった。無造作に折り畳まれたその膝に、まろの黒い前足がそっと添えられる。
「…………行きたくない」
ぽつりと呟かれた言葉にまろが視線を上げる。顔に覆いかぶさった淡い栗色の髪が、ユズルの表情をすべて影の中に仕舞いこんでいた。
「これは、お前に与えられた任務だ。……多香菜の最期を、見届けるんだ」
「嫌だ!」
ユズルが激しく首を振るたびやわらかな髪がさらさらと揺れる。
まろの顔に焦りの色が浮かんだ。こうしている間にも時間は刻一刻と迫っているのだ。
膝に乗せている足にぐっと体重を預け、まろが身を乗り出す。もう片方の足をユズルの肩にかけると、その前髪の間からうつろな瞳が覗いた。
「……ユズル。お前が行かなかったら、多香菜はどうなると思う?」
その問いかけにユズルは何の反応も返さない。ぼんやりとした瞳は黒い獣の姿を映しているのかすら定かではない。
小さく震える肩に爪を立て、まろが語調を強める。
「魂の迎えが来ない者は、死ぬよりも辛い痛みと苦しみを味わうことになる。……お前のもっている鎌は飾りじゃないんだ。肉体と魂を、何の痛みも苦しみも感じさせずに切り離す役目をもつ。
……死神に見放された魂は、激痛に悶え苦しみ、ようやく肉体から離れたところで冥界へ案内する者がいなければそのまま浮遊霊や地縛霊になるのが大半だ。お前は、多香菜の魂がそうやって無残に朽ち果ててもいいのか?」
「っ……!」
息を飲み、ユズルが顔を伏せる。
震える手をぎゅっと握りしめ、深く息を吐きながらゆっくりと顔をあげ、ようやく絞り出された声は憔悴しきっていた。
「……時間は、いつ?」
「今から一時間後ほどだ」
「場所は?」
「ここから90kmほど離れた山中で、とのことだ」
「……間に合う?」
「ギリギリだな」
覚悟を決めたように少年の眉が上がった。
行こうと一言告げて立ち上がる。弾かれたように駆け出すまろに続き、ユズルも全力で地面を蹴った。
***
蛇のように曲がりくねった道を辿ると、やがて目を見張るような惨劇の爪痕がその姿を現した。
二車線のアスファルトに色濃く残った黒い軌道。突き破られたガードレールの先には切り立った断崖。道路を挟んだ反対側には薙ぎ倒された木々や土砂が流れ出しており、悲惨な事故がここで起こったということを物語っている。
信じ難い光景だった。道路を完全にふさいでいる茶色い土砂の前で、ユズルは思わず足を止める。
今朝見送ったはずのバスが見当たらない。滅茶苦茶にひしゃげ、黒い傷跡のついたガードレールが嫌でも目に入る。
瞬時に頭が理解した。しかし信じたくなかった。
「ユズル、下だ!」
ガードレールの先を見やったまろの声に無理やり肯定させられる。
認めたくなかった事故の結果を。信じたくなかったバスの行方を。
考えるより先にユズルは駆け出していた。まろに続き、途切れたガードレールの続きへと飛び出す。
眼下に広がる深い森。こちらに腹を向けている巨大な高速バス。ユズルの胸の中がざわざわと騒ぎ出す。
「多香菜!」
バスの傍らに投げ出された一人の女性の姿が目に入った。綺麗に着飾った衣服はボロボロに汚れ、頭部からどろりと赤黒い液体が流れ出している。
ユズルの心臓が激しく脈打つ。胸の奥底から溢れ出すものを抑えきれなかった。
気が付くと、大きな声で叫んでいた。その女性の名を。
***
気が付いたら、暗闇の中にいた。
突然バスを襲った轟音と悲鳴のようなブレーキ音。隣の席から伸びる、私を守ろうとする大きな腕。
強い衝撃と共に天と地がひっくり返った。はっきり覚えているのはここまでで。
闇の中に落ちる意識。誰のものか分からない苦しげな呻き声。
ガンガンと痛む頭。感覚を失くしてゆく身体。冷たくなる指先。
ああ、ここで死ぬんだな……なんて考えて、私は自分の冷静さに少し驚いた。
混濁とした脳内に今までの記憶が次々と浮かんでは消えてゆく。
自分でも忘れていた、小さい頃の思い出。友人たちと交わした他愛もない会話。どうでもいい日常。
初めて見た男の人の照れた笑顔。幸せな記憶。
……そして、謎に包まれた小さい友人たちのこと。土産話を楽しみにしてると言っていたのに、どうやら約束は守れそうにない。
このまま死んだら、浮遊霊だと言っていたあの子たちにまた会えるかな。想像もつかない死後の世界に少しの希望を見出そうとしていた、その時だった。
「…… ―― ……!!」
私の耳に飛び込んできたのは、まさにその希望の象徴ともいえる子どもの声。
私の名前を呼んでいる?……もう、迎えに来たのかな。
薄く目を開けた。霞む視界にぼんやりと映り込んだ紺のローブ、淡い栗色の髪。泣きだしそうな顔。隣に、いつも一緒の黒い犬を引き連れて。
震えながら掲げられた右手。その先に広がる空間がぐにゃりと歪み、黒い大きな鎌が姿を現した。長い柄を掴み、少年が私の頭上に刃を振りかざす。
ああ、そうか。そうだったんだ。キミは、浮遊霊なんかじゃなかったんだ。
何だか妙に納得してしまい、私はゆっくりと目を閉じた。暗闇が視界と意識を支配してゆく。それと同時に、胸の中が軽くなるのを感じた。
子どもたちを包んでいた「謎」がひとつ解けたからなのだろう。死ぬ前にわかって良かった。
あとは、キミに任せるね――…… ユズルくん。
***
……20……19……18……
否応なしに減ってゆく数。多香菜の命が尽きるまでのカウントダウン。
「時間」がこくこくと迫る。躊躇っている時間はないのだ。右手を掲げ、大きな鎌の柄を握りしめる。そのまま勢い任せに振りあげる。
視界の隅に映る黒光りする切っ先。命が尽きる瞬間を、今か今かと待ち侘びているような鈍い輝きにユズルは顔をしかめた。
この手を振りおろせば多香菜は死ぬ。もう二度と、その眼が開くことはないのだ。
……15……14……13……12……
柄を握りしめる手が震える。じわりと目頭に浮かぶ雫が、力なく横たわっている多香菜の姿を滲ませた。
……8……7……6……
ユズルの心臓がばくばくと激しく脈打つ。隣で、まろがそっと多香菜から目を逸らすのが見えた。……友人の最期を直視できないのだろう。それはユズルも同じだったのに。
彼に出来るのは、ただ何の苦しみも与えることなく多香菜の魂を回収することだけだ。それだけに、専念すれば良かった。
……3……2……1……
多香菜を狙っていた切っ先が、ユズルの腕が、ゆっくりと下ろされた。訝しげにまろが彼を見上げると同時に、カウントダウンがその時間を告げる。
『0』
「……うっ……!!」
苦しげな表情を浮かべ、突然多香菜が呻き声をあげた。満足に動かない手足に必死に力を込め、激痛に耐えている多香菜の額から青白い光が浮かび上がる。
「多香菜!」
鎌を足元に投げ捨てユズルが青白い光に駆け寄る。地面に膝をつき、両手でその光をぐっと押し戻すと同時にユズルの背後でまろが吠えた。
「ユズル! 何をしているんだ!?」
「……やっぱり、出来ない! 多香菜が死ぬなんて絶対嫌だ!」
必死の形相を浮かべるユズルの額に透明な雫がじんわりと滲む。がくがくと震えながらも力を緩めようとしないその手のひらが、多香菜の魂と同じ色に輝き始める。
その光は手のひらから腕へ、腕から体へと広がり、やがて少年の小さな身体は青白い輝きにすっぽりと包まれてしまった。呆気にとられてその様子を見ていたまろが、ようやく状況を飲み込んだらしく焦燥しきった声をあげた。
「ユズル! やめるんだ!自分が何をしているのか分かってるのか!?」
「……うん。僕は今、初めて自分が死神で良かった、って思ってるよ」
「っ……!」
聞こえてきたのはあまりにも穏やかな声で、まろの不安が一気に掻き立てられる。
始めからユズルはこうするつもりだったのかもしれない。魂を司る死神の力を、本来の用途とは正反対の目的で使うために。
それですべての力を使い果たそうとも。その結果自らが消滅することになっても。
まろが奥歯を噛みしめる。死神本来の任務を放棄し、自らの命を投げ出すような真似をこのまま見逃すわけにはいかない。
しかし、力づくで多香菜から引き離そうと何度突進しても、まろの体はユズルに触れる前に青白い光に阻まれてしまう。
長年死神のパートナーとして務める事を運命づけられた獣ですら、限界まで高まったその力の前では成す術などなかった。
青白い光がゆっくりと多香菜の額へと沈んでゆく。その光景を、まろは目を細めて見守る事しか出来なかった。
ユズルの指先がその額に触れてもなお、青白い光は衰えることなく少年の体を包んでいた。
「……ユズル……」
金色の瞳が見上げたパートナーの顔は満足気に緩んでいた。穏やかなその視線は血色の戻った多香菜の顔へと向けられている。
「……う……」
「多香菜?」
眉をひそめた多香菜の顔を慌てて覗きこむ。一瞬曇ったユズルの表情が、彼女の瞼が持ち上がると同時にぱあっと明るくなった。
「…………ユ、ズル……くん……?」
「多香菜……良かった……!」
目を細めてユズルが安堵の息を吐く。淡く光るその少年の姿を、多香菜は霞がかった視界でぼんやりと見つめていた。
隣で目を伏せているのはいつも少年と一緒にいる黒い獣。視線をずらすと、自分へ振り下ろされんとしていた大きな鎌が転がっているのが見えた。
死を覚悟していた。―……しかし、自分は今生きている。
自分を、魂を迎えに来たのだろう死神の子どもが、目の前で涙を浮かべて微笑んでいる。
状況を飲み込めないでいる多香菜の耳に聞きなれた少女の声が飛び込んできた。同時に、桃色の髪と濃紺のワンピースをはためかせながら崖上から桜石が軽やかに降り立った。
「ユズル! 多香菜!」
「桜石……?」
振り向いたユズルが小さく目を見開く。どうしてここに、と問うもその答えは返ってこなかった。
桜石の目に映るのは悲惨な事故の光景。そして頭から血を流している多香菜と、不自然に青白く光るユズルの姿。
「なに、これ……。まろ、何があったの?」
「……ユズルの、今回のターゲットが多香菜だった、とだけ言っておこう」
「えっ……?」
不安気に見開かれた桜石の大きな瞳が揺れる。目を伏せたままのまろからユズルへ、多香菜へ、そして地面に無造作に転がった黒い鎌へと視線を移し、その顔色がみるみる青ざめてゆく。
「……そんな……。まさか、ユズル……!?」
「……ごめん、桜石。でも、こうするしかなかった。……多香菜を……死なせたく、なくて……」
ユズルを包む光がぐらりと揺れる。まるで、小さな炎のようだった。
風が吹けば消えてしまいそうなほどその姿が儚く霞む。
瞳から大きな雫をぽろぽろと零し、桜石が激しく首を振る。続いて飛んできた怒号は、涙に霞んでいた。
「バカ! ユズルのバカ! どうしていつもあたしを置いて行っちゃうの? ……絶対、あたしを一人ぼっちにしないって言ったのに……」
顔を覆い、声を上げて泣きじゃくる桜石にかける言葉もなく、ユズルはただ困惑した表情を浮かべて目を伏せる。
その横顔にかけられた多香菜の声も、小さくかすれていた。
「……ユズル、くん……。私を、助ける……ために……?」
激しい痛みでしびれる腕をそっと伸ばすと、青く揺れる体をすり抜けた指先からじんわりと温かいものが流れ込んできた。多香菜の瞳に熱い雫がこみ上げる。
「……ダメ、だよ。泣かないで……。僕、多香菜にこれからも笑っていて欲しかった、から……。だから……」
その後の言葉は空中に溶けるように消え入った。ぐらりと揺れ、崩れ落ちた体は音もなく地に伏す。
細く伸びる光が、まるで煙のように空に吸い込まれてゆく。
「ユズル!?」
慌てて駆け寄った桜石がその体を抱き起こす。
腕の中のユズルの身体は実体がないかのように淡く、儚く、軽かった。
桜石の両の瞳から止めどなく溢れ出す涙が、青白く溶けてユズルの頬を揺らす。薄く開かれた瞼の下からやわらかい眼差しが返ってきた。
「その時」が近いのだろう、ということを桜石も感じ取っていた。しかし、一層激しく頬を伝う雫が、どうしてもそれを受け入れようとしない。
「……やだ……。やだよ、ユズル……!」
「…………さく、ら……いし……」
炎のように輪郭を歪めながら、ユズルの手のひらが桜石の頬に添えられる。温かいような、冷たいような不思議な熱が桜石を包む。
「……桜石、は……ひとりじゃない……。多香菜、や小梅……バンタも、まろも……。みんな、桜石のそばに、いる……から」
「嫌だよ! ユズルがいなきゃ嫌なの! ……ユズルがいなきゃ、意味ないのに……!」
桜石が大きく首を振るたび、透明な雫が宙で煌めく。少年の肩を抱く手にぎゅっと力がこもる。
儚くも、確かに存在するはずの、存在していたはずの熱が薄れていき、命が尽きてゆく。
ユズルの視線が力なく耳を垂れている黒い獣へと向けられる。悲しく潤む金色が、消えゆくパートナーの姿を見つめていた。
「……まろ……。桜石の、こと……よろしく……」
「ああ……。任せろ」
「…………あり、がとう…………」
安心したように穏やかな笑みを浮かべ――……ユズルはゆっくりと、その瞳を閉じた。
「ユズル!? ……ユズル!!」
桜石の悲痛な叫びはもう届かない。抱いていた肩が、ただの青白い光に変わる。
その輪郭も、その表情も、すべて青の中に混ぜ込んで、
一筋の光が、溶けるように空へ昇って行った。
滴る雫が自らのひざを濡らす。からっぽになった腕の中には、少しの余韻すら残されていない。
たがが外れたように泣き叫ぶ桜石の声を、多香菜とまろだけが聞いていた。
皮肉なほど晴れ渡った空は、少年と同じ色をしている。
どこか遠くで、救急車のサイレンが鳴っていた。
***
太陽の光を照り返して、真っ白に輝く巫女装束が目に眩しい。
その後ろについて歩みを進めるのは丁寧な化粧を施した一人の女性。そしてその隣で歩幅を合わせて歩くのは袴姿の男性。
厳かな空気に満ちた神前に、着物に身を包んだ初老の夫婦や落ち着いた洋服で控えめに着飾った若い男女たちが集まっていた。
物音ひとつ、息遣いのひとつすら響きそうなほどその場は静かで。張り詰めている緊張感すら心地良いほど、その場は幸せな空気に満ちていて。
何やらぶつぶつと呪文のような言葉を唱えているおじいさんの話に、ありがたく耳を傾けて頭を下げたり、ちみちみとお酒を飲んだり。
そんな光景ばかり繰り返されて二人の子どもはすっかり退屈しきっていた。
「ふああ……。なあ、これいつまで続くのかなあ? 結婚式って、もっと派手にやるもんだと思ってた」
「あたしも……。でも、これが習わし? なんだって。シンゼンシキって言ってたよ」
丸々と太った少年が大あくびをする横で桃色の髪の少女も眠そうに目を瞬かせている。
式に参列する男女たちの一番後ろで、壁にぴったりと沿ってその様子を見守る。おじいさんの言葉も、執り行われている儀式の意味も、子どもたちにはさっぱり理解の出来ないものだったけれど。
白い着物と角隠しに身を包んだ新婦は、今まで見たどんなものよりも美しくて子どもたちの胸を高鳴らせていた。その女性の姿を見るために、幸せそうな顔を見るためにはるばる来たのだ。
完全に緩みきった顔で少年がうっとりとした声を上げる。
「ホントに綺麗だよなあ、多香菜さん」
「うん。……ユズルにも、見せてあげたかったな」
ぽつりと少女が呟く。眉をひそめ、女性を追うその眼差しはどこか遠くを見つめているようにも見えた。少し湿っぽくなった空気の中で少年の同意する声が聞こえる。
2年前、一人の女性を助けるために自らの命を投げ出した友人のことを思い出す。
いつも憂いを帯びた表情で、一人佇んでいた。
大人しい子どもだった。笑わない子どもだった。……しかし、とても心優しい少年であった。
「……ユズルがね。最期に、笑ってたんだ。すごい、穏やかな顔で……」
少女の声が震え、枯れ果てたはずの涙が両の瞳から溢れ出す。
この2年間、何度も何度も思い出して、何度も何度も泣いて、それでも尚涙は尽きることなく、胸は新しい傷が付けられたかのごとく痛みを訴える。
「……多香菜の、今日の姿を見たら、ユズルはまた笑ってくれるのかな」
「桜ちゃん……」
静かに涙を流す少女の横顔を、少年はただ黙って見つめていた。数え切れないほど見てきた少女の泣き顔は何度見ても慣れないものだった。
多分、きっと。少年が呟いた言葉に、泣いていた少女も小さくうなずく。
静かに新郎新婦に背を向け、二人の子どもは式場を後にした。外に出た瞬間、目がくらむほどの眩しい日射しと元気に跳ねまわる獣の声が二人に降り注いだ。
広々とした境内を走りまわるピンク色の小動物はひっきりなしに黒い大きな獣に飛びつき、離れ、楽しそうにじゃれている。
黒い獣の頭の上には、丸々と太ったネズミが振り落とされまいと必死にしがみついている。チチ、チチチ、という小さな叫びが甲高い声に交じって境内に響いた。
「おーい、みんなー!」
大きく手を振りながら獣たちを呼ぶ太っちょ少年の声に、最初に反応したのはネズミだった。チチチと声をあげ、短い手足で必死に境内を駆け抜ける。後に続いた二匹の獣も、二人の子どもの眼前で足を止めた。
「もう良いのか?」
金色の瞳で見上げながら黒い獣が問う。うん、とうなずいた少女の腕の中にピンク色のふわふわが飛び込んで甘える。
「ねえねえ桜石! あっちに面白そうなものがあったのよ!行ってみない?」
「そうだね。行こっか、小梅」
やわらかい毛並みを撫でるとピンクの獣は気持ち良さそうに目を瞑る。その足元で、黒い獣が意地の悪そうな笑みを浮かべて少年を見やった。
「よし、じゃあ俺と競争しようか、バンタ?」
「ええ~~っ。勝てるわけないだろお。あんまり俺をいじめるなよなあ」
「うん、丁度いいんじゃない?バンタ、おジイに少し痩せろって言われてたじゃん」
「さ、桜ちゃんまで……」
「それじゃ、よーいドンなのよ!」
困り果てた顔の少年をよそに、ピンクの獣が唐突にスタートの合図を切る。瞬間、駆け出した二匹の獣と一人の少女。出遅れた少年が、あたふたとお腹を揺らして皆の背中を追いかける。
――…………ザザザッ……
「……えっ……?」
穏やかな境内を吹き抜ける一抹の風。桃色の髪がふわりと揺れる。
頬を撫でる懐かしい気配に少女は思わず立ち止まり、どたばたと追い抜いてゆく足音を聞きながら後ろを振り返った。
背後にはもう誰もいない。
しかし、確かに気配を感じたのだ。それは少女の中に溢れる熱が物語っている。
空っぽだった胸の中が、温かいもので満たされてゆく。
頬は紅潮し、見開かれた瞳は大粒の雫に覆われ、無数の光を反射して輝いた。
柔らかい髪。幼さの残る丸い頬。一呼吸おいて喋り出す、静かなその声も。小さな手の温もりも。
まるで昨日までそこに居たかのように、少女の中に鮮明に蘇る。
「……おかえり、……ユズル」
言葉が自然と零れる。懐かしいその風が、式を終えて出てきた新婦の袖を揺らすのを見届けて少女は涙を拭った。
――……ああ、いま、笑っているのかな。
「桜石ー! 早く早くー!」
甲高い声が背後からあがる。今行く、と言葉を返して少女が駆け出す。
その顔には、2年ぶりの笑顔を浮かべていた。
***
白い病室に温かな日射しが降り注ぐ。黒い髪をひとつにまとめ、病衣をまとった女性が穏やかな表情を浮かべて赤ん坊を抱きかかえている。
「……やっと、会えたね」
そう呟き、愛おしそうに微笑みながら赤ん坊の柔らかな頬を撫でる。
やがて病室の扉が開かれ、廊下から一人の男性が顔を覗かせた。手には透明なクリアファイルを抱えて、足音を立てないようにゆっくりと女性に近付く。
「多香菜。出生届け、もらってきたよ」
「うん。ありがとう」
「名前、もう決めてるんだっけ?」
女性の隣に腰を下ろし二人の顔を交互に見やる。うんとうなずいて赤ん坊に視線を戻した女性は、どこか懐かしそうに目を細めた。
「……譲」
独り言のように呟かれた三文字の名前。涙を浮かべて女性が微笑む。
その腕の中で寝息を立てる小さな命。
淡い栗色の髪が、日射しを受けて輝いていた。
***
その少年に出会ったのは、ある雨の日だった。
大学から帰る際いつも通る細い路地。その真ん中で、傘もささずにじっと佇んでいた。
真っ黒い大きな犬を傍らに従えて。見慣れないへんてこな紺の服を着ていて。
……こんなことを言うと、いつも友達には笑われるのだけれど。私には「霊感」があった。
少年に近付いた瞬間気付いたのだ。冷たい雨に打たれているのにも関わらず、その髪も、その服も、そして黒い犬の毛並みさえ何ひとつ濡れていないことに。
それでも私は気持ちを抑えられなかった。その小さな背中から「哀愁」のようなものを感じ取っていたのかもしれない。
気が付いたら、腰をかがめ少年の頭上に傘を差し出していた。
「……こんにちは。大きなワンちゃんだね」
ぎょっとして振り返った少年の顔を、私は忘れることはないだろう。
・
・
・
雨足が強くなった窓の外を少年が眉をひそめて見つめていた。灯りのついた室内がどこか薄暗く感じるのは、一重にこの耳が痛くなるほどの静寂のせいだろう。
ガチャリ、と扉の開く音に小さな肩が跳ね上がった。楽な長ズボンとTシャツに身を包んだ女性が、柔和な笑みを浮かべて少年の隣へと歩みを進める。
「はあ、すっかり濡れちゃった。温かいお茶……を出しても、キミは飲めないか」
怯えた瞳で見つめてくる少年とその少年を守るように身を屈める黒い犬を一瞥し、女性はふふっと笑みをこぼす。
不思議な人だと少年は感じていた。長い黒髪に整った顔立ち。柔らかく細められた瞳に長いまつげの影が落ちる。
「私は多香菜。……キミは?」
「……ユズル」
「そっちのワンちゃんは?」
多香菜が視線を移すと黒い犬はぐるると小さく唸る。その声に促されるように、少年が「まろ」とだけ答えた。
ぽんっと両手を合わせて多香菜がやわらかい表情を浮かべる。
「ユズルくんに、まろくんね」
そう言ってまたふふ、と笑う。その屈託のない笑顔に、ユズルは困惑したように視線を落とした。
「ユズルくんたちは、この辺の地縛霊……って訳でもなさそうだね。初めて見たもの。どこから来たの?」
「……ええと……」
少年は顔を伏せ、言葉を探すように押し黙り……小さく首を横に振る。
「……ど、どこか…遠いところ」
「そっか。あちこち旅する浮遊霊さんかな?」
「……そんな感じ」
「じゃあ、またどこか遠いところへ行くの?」
しばし考え、ユズルは再び首を否定の形に振った。「しばらくはここにいる」と言葉を付け足すと多香菜は安心したような笑みを浮かべ、「そっかあ」と何度も何度もうなずいた。
「じゃあ、また会えるね。……ふふ、不思議なお友達が出来て嬉しいなあ」
楽しそうに多香菜が笑う。少年はただ、戸惑いながら目を伏せることしか出来なかった。
***
「変な女だったな」
石畳の渡り廊下を歩きながらまろがぼそりと呟く。目の前に続く乳白色を見つめてユズルもそれに同意した。
人間と話をしたのは初めてだった。その初めての相手が、幽霊と認識した子どもと友達になって喜ぶような変人だったなど誰が予測できただろう。
「ヘン……だけど……」
「なんだ?」
「……また会いたい」
その言葉にまろが足を止める。見上げた少年の表情はいつもより少し穏やかだった。
くくく、と押し殺したような笑いをあげ、口を開く。
「ユズルも相当な変人だからな。あの女と気が合うかもしれん」
「なんだよ、それ……」
ムッとした表情でユズルが口を尖らせる。本当のことだろう、とまろが追い打ちをかけるとその頬がぷくりと膨れた。
(こうして見ると普通の子どもなんだがな……)
まろの胸の中にわだかまりが残る。出会った当初と比べれば、ユズルは大分まろに心を開いているようだ。今まで見せなかった様々な表情も徐々に見せ始めている。
それでも、まろの中に残るわだかまりはどんどんと大きくなるばかりだった。
***
黒い半月が宙を切る。その刃は男の体をすり抜け、同時に青い炎がすうと浮かんだ。
どさりと音を立てて崩れ落ちる体。その抜け殻をまだ幼さの残る暗い瞳が睨んでいた。
「……じゃあ、これよろしく」
ユズルから青い炎を受け取り、まろが大きな尻尾をなびかせて走りだした。黒い体がぐにゃりと歪んだ空間の中に飲み込まれ、やがて見えなくなる。
「一人前の死神」として働き始めもうどれほど経つのだろうか。次々と指名されるターゲットを監視し、鎌を振り下ろす毎日。
(イヤになるなあ……)
ふう、と小さく息を吐いて力なく歩き出す。宛てもなく歩き続け、そのまま人間界に身を潜めてしまいたい。そんな陰鬱とした気分だった。
「……あ」
前方から見えてきた人物にユズルは思わず声をあげた。宛ても目的もなく歩いていたはずが、いつの間にかここへ向かっていたらしい。
黒髪の女性はユズルに気付くと笑顔で手を振り、はっとした表情で辺りを見渡す。当然だ。ユズルの姿は他の人間には見えていないのだから。
辺りに目撃者がいないのを確認すると、その女性は再び笑顔をたたえてユズルのもとへ足早に駆け寄った。
「こんにちは、ユズルくん。今日はまろくんは一緒じゃないのね」
あの日から時間があればユズルの足は自然にここへと向かっていた。初めて言葉を交わした人間。ヘンテコな友達のもとへ。
「おいで、ちょっとお話しようよ」
無邪気に笑う彼女の言葉にユズルもためらいなくうなずく。穏やかに笑う多香菜の顔を見るたび、日々の任務で荒んだ心が癒されるような感覚だった。
(……やっぱり)
浮かれ足で歩く多香菜の背中を見上げる。黒い髪がさらさらと揺れ、西日を浴びて輝いている。
(……僕は死神には向いていない)
***
硬い爪が乳白色を蹴りあげるたび軽やかな音が鳴る。やわらかな尾を揺らし、まろは長く続く廊下の先を見すえた。
任務が終わったと言うのにユズルはまだ帰ってきてはいない。
その行き先の予想はついていた。金色の瞳が物憂げに細められる。
「まろーっ!!」
不意に背後から聞こえた元気な声に黒い鼻先をゆっくりと向ける。丁度任務を終えたらしい桜石と小梅の姿がそこにあった。
ぱたぱたと元気な足音をたてて桜石が駆け寄る。まろを一瞥し、辺りをキョロキョロと見渡して小首を傾げた。
「ユズルは一緒じゃないの? 任務終わったんでしょ?」
「ああ。あいつなら今頃人間界をほっつき歩いているんじゃないか。いつもそうだからな」
「もー! どーりで最近姿見せないと思った! せっかく久しぶりに会えると思ったのになあ……」
頬を膨らませて桜石が顔を伏せる。その足元で小梅がキンキンと甲高い声をあげた。
「ユズルのせいで最近桜石までジメジメなのよ! アンタ、アイツのパートナーならなんとかしなさいよね!」
「べ、別にあたしはジメジメなんかしてないもん!」
「いーえしてるのよ! アイツのジメジメキノコ菌が桜石にまでうつっちゃったんだわ!」
目の前で繰り広げられる応酬にまろは思わず顔を緩めた。
女三人で姦しいとはよく言うが、この二人の騒がしさには女三人でも四人でも敵うまい。
「本当に元気だなお前たちは。そのやかましさ、少しユズルにも分けてやりたいぞ」
「アイツがやかましくなったらそれはそれで気味が悪いのよ」
「えーあたしは見てみたいなあ。てゆーかユズルが元気になるんなら何でもいいや。……一度でいいから、ユズルが笑ってるとこ見てみたいもん」
目を伏せて桜石が寂しそうな顔を見せる。驚きを隠しきれない表情でまろが口を開いた。
「……見たことないのか? お前、ユズルと仲が良いんだろう?」
「うん。ちっちゃい時から一緒に遊んでる。でも、昔っからユズルはあんな調子。元気に笑って走りまわってる姿なんか一回も見たことないよ」
「生まれつきのジメジメ男なのね。そんなの救いようがないのよ」
小梅が非難するような声をあげる。それをなだめる桜石はまるで小さな妹をもつ姉のようだった。
「それじゃ、あたしたちはそろそろ行くね。心配してるんだからたまには顔みせろーって、ユズルに言っといて」
「わかった。伝えておこう」
そう答えると桜石も笑顔でうなずいた。よろしくねー!と叫びながら、小梅をつれてパタパタと騒がしく廊下の先へと走り去る。
しかし、それからユズルが桜石の前に姿を見せることはなく二日経ち、さらに五日が経った。
***
大きなお腹をゆさゆさと揺らして一人の少年が石造りの建物から姿を現した。一仕事終えたのだろう、ぐぐっと伸ばした少年の肩で同じようにまるまると太ったネズミが疲れた顔を浮かべていた。
小さな鼻をヒクヒクと動かして少年に何か耳打ちをする。チチチ、と小さな声が少年の耳をくすぐった。
「なんだよお。もうお腹空いたのか? ちょっとは俺を見習ってセッセイしろよなー」
チチ、とネズミが抗議の声をあげる。ぽつぽつと言い争いながら歩を進める少年の視界に一人の少女の姿が映った。
桃色の髪がさらさらと揺れ、その顔には憂いを帯びている。
訝しげに眉をひそめ少年はゆっくりと少女に歩み寄った。
「桜ちゃん? どうしたんだよ、元気ないなー」
「……バンタ」
ゆっくりと桜石が顔をあげる。いつもの快活な彼女からは想像もつかない、その暗く沈んだ表情にバンタは戸惑いを隠せないでいた。
黙りこんでいる少女の足元で甲高い声があがる。
「ちょっとまんまる男! アンタ、ジメジメ男がどこにいるか知らない!?」
「うわ、出たようるさいの……」
「なによ! アタシがいたらいけないっていうの!?」
小梅が全身の毛を逆立てる。まあまあ、となだめて抱き上げる桜石の腕の中にその小さな体がすっぽりと収まった。ふわふわの毛を撫でながら少女が首を傾げる。
「ねえ、バンタは最近ユズルに会った?」
「え? ……そういえば、最近アイツの顔見てないなあ。桜ちゃんは? いつも一緒だったじゃん」
「うん……。いつも、一緒……だったんだけど……」
桜石の顔に再び暗い影が落ちる。はあ、と小さく溜息を吐く彼女を見てバンタも状況を察したようだ。
言葉を探すように目を泳がせ、やがて重い溜息と共にその視線は地面へと向けられる。
ジメジメとした空気に小梅が不機嫌そうに毛を膨らませた、その瞬間だった。
「……あれ?」
二人の耳に飛び込んできたのはどこか懐かしく感じる少年の声だった。
目を見開いて桜石とバンタが声のした方を見やる。栗色の髪をもつ少年が、きょとんとした表情で小首を傾げていた。
「桜石もバンタも……。なにしてるの? こんなところで」
「ユズル!?」
口を揃えて二人が声の主を呼ぶ。ゆっくりと二人に近付くユズルを制するように甲高い怒号があがった。
「ちょっとおおおーっ!!」
その場にいた全員の肩が跳ね上がった。その反動で転げ落ちたネズミが間一髪バンタの服にしがみつき、チチチと悲痛な声をあげる。
桜石の腕の中から勢いよく飛び出したピンクの毛玉が、ユズルの顔面に華麗な体当たりをお見舞いする。思わずよろめいた少年の耳にキンキンとした声が飛び込んできた。
「今までどこほっつき歩いていたのよこのジメジメキノコ! 桜石がどんだけ心配してたかわかってんの!?」
「ちょ、ちょっと、小梅!」
慌てて桜石が小梅を抱き上げる。両脇を持ち上げられ、バタバタともがき暴れながら小梅は全身の毛を逆立てた。
「アンタがいない間、桜石はずっとジメジメだったのよ! なんとか言いなさいよ!」
「……ご、ごめん……?」
状況をまったく飲み込めていない様子のユズルがとりあえずの謝罪を口にする。興奮冷めやらぬ様子の荒い鼻息が少年の頬を撫でた。
「でもよお。最近本当にお前と会わなかったよな。どこ行ってたんだ?」
「ちょっと人間界に……。でも、任務はちゃんとこなしてたよ?」
「もう! そういうことじゃなくて!」
斜め上の事を口走るユズルに桜石の容赦ない突っ込みがくだる。訝しげに眉をひそめる友人は根本的な話をまだ理解できていない様子だ。
「最近全然顔見せないから、さみし……じゃなくて! みんな心配してたんじゃん! 任務も忙しくなってきたし、人間界に行くのもユズルの自由だけどさ……。たまには、あたし達のことも思い出してよ」
「……ごめん、桜石」
ようやく状況が飲み込めたらしいユズルが目を伏せる。口を尖らせる桜石の隣で、バンタが両手を腰にあて丸い頬を更に丸く膨らませた。
「俺も、心配したんだぞ」
「ごめん、バンタ。……小梅も」
「え? ア、アタシは別に! 違うのよ! 桜石が元気なかったから、仕方なく心配してあげただけなのよ!」
あたふたと身をよじらせながら小梅が早口で否定する。腕の中でしどろもどろになっているパートナーを見やり、桜石が小さく吹き出した。
なによ!と声を荒げた小梅の口から小さなキバが覗く。
「えへへ。じゃあ心配かけたバツとして、今日はあたし達にトコトン付き合ってもらうよ! ユズル!」
「……え? どこ行くの?」
「どこでも良いよ! みんなで遊べるところなら!」
満面の笑みを浮かべ、桜石がワンピースをひるがえして駆けだす。まるでダンスを踊るかのような軽やかさで石畳を蹴りあげるその後ろ姿を、残された二人は呆然と見つめていた。
「ユズルー! バンター! 早く早くー!」
振りかえって友を呼ぶ桜石はすっかり今までの元気を取り戻したようだ。行こうぜ!と無邪気な笑顔を浮かべてバンタがユズルの手を引いて走りだす。
元気な足音が三つ、廊下の奥へと消えてゆく。
その後ろ姿を黒い獣が目を細めて見つめていた。
***
道路の両脇に立ち並ぶ色とりどりの建物。閑静な住宅街を抜けた先には、小さな公園が子どもたちを待ちかまえていた。
物珍しそうにぐるぐると辺りを見渡す少女の顔は満面の笑みに満ちている。
「ここがいつもユズルが来てる場所なんだね。ねえねえ、ここにはどんな面白いものがあるの?」
「……面白いもの……」
キラキラとした笑顔を向けられユズルは言葉を詰まらせる。その隣でバンタが普通の住宅街じゃないかと不満げな声をあげた。
バンタの言う通りなのだ。ここは何の変哲もない、ただの住宅街。
そこに頻繁に入り浸っている友人の秘密を暴くため、こうしてみんなでやってきているのである。
「だって、なんかあるからユズルはいつもここに来てるんでしょ?」
そう言って小首を傾げる桜石は、この住宅街にユズルの心を鷲掴みにするほどの「面白いなにか」があると信じて疑っていない様子だ。
にぎやかな通りから離れた静かな街。桜石の足元で小梅が「ジメジメ、ジメジメ」と顔をしかめて呪詛のように呟いている。
(困ったなあ……)
眉尻を下げてユズルが小さく息を吐く。桜石が期待しているような面白いものなど何もないのだ。
あるとしたら――……
「あれ?ユズルくん?」
背後から聞こえてきた声に三人は同時に顔を向けた。黒髪の女性は辺りをキョロキョロと見渡し、誰もいないことを確認すると足早に三人に近寄る。
「わあ、今日はお友達がたくさんいるのね」
「う、うん……」
控えめにうなずくユズルの両脇で、桜石とバンタがじりじりと後ずさる。
「……なに? あたし達が見えてるの?」
「お、おい、ユズル。お前、ニンゲンと知り合いなのかあ?」
口ぐちに怯えた声を上げる二人に向き直り、ユズルはうなずく代わりにゆっくりと目を伏せた。
ふふ、とやわらかく笑い、女性はゆっくりと屈んで三人と目線を合わせる。
「はじめまして。多香菜といいます。よろしくね」
夕刻の日射しを受けて黒い髪がさらさらと光る。眉をひそめて多香菜を見やる二人の姿が、いつかの自分と重なってユズルは咄嗟に口を開いていた。
「大丈夫だよ。多香菜は、悪い人じゃない。……僕の、友達だから」
「ホントかよお、ユズル?」
恐る恐る歩みを進め、バンタがユズルの隣に並ぶ。桜石は未だに訝しげな表情で多香菜をじっと睨んでいた。
「ここじゃ何だから、公園にでも行こっか。……ええと」
腰を伸ばして多香菜が少年少女を交互に見やる。名前を尋ねられているのだと気付きバンタが元気良く手をあげる。その肩の上で、太ったネズミも同じように前足を上げチチッと鳴いた。
「俺はバンタ!よろしくなあ」
「アタシは小梅なのよ!」
柔和な笑みを浮かべ、「バンタくんと小梅ちゃんね」と多香菜が復唱する。そして残った桜石に全員の視線が集まった。
「キミは?」
「……桜石」
ふいと目を逸らしぶっきらぼうに答える、素敵な名前だね、と多香菜が微笑むと目を逸らしたままムッとしたように眉をひそめた。
「じゃあ、行こう」
そうみんなを促し先手をきって多香菜が歩き出す。わいわいとそれに続くバンタと小梅を横目で見ながら、桜石はそこから動けないでいた。
いままで感じたことのないどす黒い「なにか」が胸の中で渦巻く。
落ち着いた雰囲気。さらさらと流れる黒髪。大人びた顔。綺麗な人だと桜石も感じていた。
バンタや小梅、ユズルでさえもすんなりと心を開いてしまうその包容力。優しい笑顔。良い人だと頭ではわかっていた。
それなのに何故だろう。
自分でも認めたくないこの醜い感情はどこから湧いてくるのだろう。
口を引き結び、地面を睨む桜石の眼前に小さな手が差し伸べられる。
「……桜石。行こう?」
見上げた視界に映るユズルは、滅多に見せないような穏やかな表情を浮かべていた。
複雑な気持ちを抱きながらその手をとる。
そのままユズルに手を引かれて歩き出す。
先を歩いて手を引くのは、いつも自分の役割だったのに。
胸がギリギリと締め付けられ、桜石の目に熱いものが滲んだ。
***
すっかり日の沈んだ空に乳白色の建物が映える。集落のように広がった石造りのコテージの間をぬって三人の子どもが足並みを揃えて歩いていた。
「それにしても、ヘンな人だったな。あんな人間もいるんだなあ」
ニコニコと笑みを浮かべているバンタの口調は少し興奮気味だ。ヘンテコ人間なのよと同意した小梅も、どうやら多香菜のことは気に入ったようだった。
適当な相槌をうちながらユズルがその隣を歩く。桜石は未だに浮かない顔で黙り込んでいた。
「じゃ、俺はここで。またな、ユズル。桜ちゃん」
大手を振ってバンタが列から外れる。「またね」と手を振り返し、ユズルはその背中を見送った。
続いて小梅がユズルと桜石の顔を交互に見やる。
「それじゃあ、アタシも帰る前にちょっと仕事場に寄って行くのよ。ユズル、ちゃんと桜石を送り届けるのよ!」
「わかってるよ」
満足そうに目を細めた小梅は飛ぶような軽やかさで闇の中へと消えてゆく。
残された二人を静寂が包む。行こう、とユズルが促すと、小さくうなずいて桜石も歩き出した。
「……ねえ、ユズル」
並んで歩きながら桜石がぽつりと口を開く。「ん?」と声をあげてユズルは隣を見やった。
「……ユズルは、あの人に会うために、人間界に行ってたの?」
俯いたまま少女が続ける。しばしの静寂のあと、「うん」と肯定の声が聞こえた。
桜石の小さな胸が再びギリギリと悲鳴をあげる。思わず足を止めた彼女を、ユズルは眉をひそめて見つめていた。
「ユズルは、あたしといるより、あの人といる方が楽しいの?」
「なんで? そんなことないよ」
「……だって」
ワンピースの裾を握りしめ桜石が肩を震わせる。大きな瞳から透明が雫がぽろぽろと零れた。
「……あの人は、あたしに無いもの、全部持ってるんだもん……」
「桜石?」
今まで涙など見せたことのなかった少女の泣き顔に、ユズルはただ動揺を隠せないでいた。
顔を伏せ、両手で涙を拭いながら、嗚咽の混じった声で桜石が呟く。
「……嫌、なの……。わかんないの……」
「え……?」
ユズルが問い返すと桜石はぶんぶんと首を横に振る。こみ上げる感情に彼女自信も混乱しているようだ。
ユズルが自分の手を引いて行くほど前向きになったこと。それ自体は桜石もずっと望んでいたことだった。
しかし、彼をそこまで変えるほどの影響を与えたのは自分ではない。
流れる黒髪。穏やかな微笑み。すらりと高い背。落ち着いた口調。
全てが自分と正反対の女性に、彼は惹かれたのだ。
「……ユズルが、あの人と仲良くしてるの、嫌だよ……。なんでかわからないけど、嫌なの!」
「…………」
かける言葉も返す言葉も見当たらず、ユズルは静かに目を伏せた。どうしたら良いのかわからずに少年の思考回路も混乱の一途を辿っている。
声を押し殺し、少女はただ泣きじゃくっている。ユズルに出来ることは一つだけだった。
「……帰ろう、桜石」
涙に濡れたその手を取る。自分が足を止めた時、桜石がいつも手を引いてくれたように。
しゃくり上げながら桜石も小さくうなずく。歩幅を会わせて、二人はゆっくりと歩き出した。
そのコテージの入り口はピンク色のカーテンで塞がれていた。どちらからともなくゆっくりと足を止める。
繋いでいた手を離すと桜石の腕は力なく垂れ下がった。涙は止まったものの、その顔は未だ憂いを帯びたままだ。
「……明日も、あの人のところに行くの……?」
「……わからない」
桜石の問いに、ユズルは力なく首を横に振った。うつむいたまま桜石が続ける。
「……もう、あの人のところに行かないでって言ったら……。ユズルは、怒る? あたしのこと……嫌いになる?」
最低な質問だと自分でも思う。それでも止められなかった。
困ったようにユズルが眉をひそめる。続いて口から紡がれた言葉は、肯定でも否定でもなかった。
「……桜石は、多香菜のこと嫌いなの?」
「嫌いじゃ……ない、けど……」
綺麗な人。優しい人。良い人。誰からも好かれるような人間。
嫌いな点など見当たらなかった。しかし、そんな所が嫌いなのかもしれない。
頭と心が噛み合わず、桜石の胸の中はぐちゃぐちゃだった。
「……あたし、怖いよ。ユズルも、小梅も、バンタも、みんなあの人の所に行って……。あたしだけ、一人ぼっちで置いて行かれるんじゃないかって……」
「桜石……」
彼女の胸の中に渦巻いているものを察し、ユズルは納得したような声を漏らした。
幼いころから桜石は一人ぼっちになるのを恐れていた。かくれんぼをして遊んでいても、数分探して見つからないと不安になって泣きだしてしまうのだ。
そういう寂しがり屋なところは、昔から全然変わっていなかった。
「僕も、バンタも、小梅も、桜石のこと大好きだよ。絶対に一人ぼっちになんかしないし、桜石のこと置いて行ったりしない」
「……本当?」
「安心して」
そう言ってユズルは微かに口角を上げる。目尻に浮かんだ雫を拭い、ようやく少女の顔にも笑顔が戻った。
……20……19……18……
灰色の風が眼下を吹き抜ける。ボロボロに破けた金網が派手な音を立てて叩きつけられた血塗れの男の体を受け止めた。
唇から、鼻孔から、赤黒い液がどろりと流れる。肩で息をしつつ、それでもなお前方の人物を睨みつける瞳はギラギラと光っていた。
15……14……13……12……
血塗れの男を囲むのは頭髪を金色に染め上げた数人の若者だった。皆一様にニヤニヤと薄ら笑いを浮かべている。
……8……7……6……
黄色い歯を見せていたその口がガラリと表情を変える。若者たちの目は見開かれ、怯えた様な視線が男の手元に集中していた。
鈍い光を受け鋭く光る銀色のナイフ。若者を睨む男の目は座り、もはや光など映してはいなかった。
……3……2……1……
獣のような声をあげて血塗れ男がナイフを振りかざす。声にならない声を震わせ、怯えた目の若者が後ずさる。
跳ねる肩。丸まった背中。若者を狙うもう一つの刃。金色の頭上に黒い三日月が昇る。そして――……
『0』
・
・
・
耳をつんざくような悲鳴があがる。恐怖と苦痛の形相で凍りついた若者の体がゆっくりと崩れ落ち、砂けむりが舞う。その胸に銀色のナイフが深々と突き刺さっていた。
荒い呼吸を繰り返す男とピクリとも動かなくなった仲間を交互に見やり、残りの若者たちは一人、また一人と悲鳴をあげて走り去った。
その様子を、一人の少年がただ、ただぼんやりと見つめていた。
淡い栗色の短い髪。まだあどけなさの残る幼い顔は憂いを帯び、大きな瞳は虚ろに開かれ、物言わぬ亡骸を映している。
少年の手には黒い三日月状の刃を宿した大きな鎌が握りしめられていた。そして、もう片方の手には青白く揺れる小さな炎。
鎌を持つ手にぎゅうと力が込められ、少年の顔が何かに耐えるように歪む。そのままゆっくりと踵を返し、二人の男に背を向け音もなく歩き出した。
空間がぐにゃりと歪み、歩を進める小さな身体を包み込むと同時に少年の姿が忽然と消える。
灰色の風が吹く。
男の荒い呼吸音をかき消すように、遠方でパトカーのサイレンが鳴り響いた。
***
乳白色の石畳をぺたぺたと叩く足音が、ひどくゆっくりとした間隔で通路に響く。
淡い栗色の髪が、交互に足を繰り出す少年の体の傾きに合わせて小さく揺れる。眉が下がり、目を伏せたその表情は暗い。
のんびりと歩を進める少年の背後から元気な足音が聞こえてきた。その音は段々と大きくなり、やがて少年が足を止めると同時に明るい声があがる。
「ユズルー!!」
その声に振り返ると、桃色の髪を踊らせながら一人の少女が満面の笑みで駆け寄ってくるのがわかった。深い紺色のワンピースが少女の膝先で波紋を作る。
少し表情を和らげながらユズルと呼ばれた少年はゆっくりと口を開いた。
「……桜石」
「お仕事、行って来たんだ? 偉いじゃんユズル!」
「……うん……」
笑顔ではしゃぐ少女―桜石に対し、ユズルの表情は依然曇ったままだ。気のない曖昧な返事を返していると両手を腰に当てた桜石が口を尖らせる。
「もう! ユズルってばまたジメジメしてるの!? キノコ生えても知らないよ?」
「……だってさ、何回やっても慣れないんだ……。いっつも思うよ。なんでこんな事しなきゃいけないんだろうって」
そう言ってうつむくユズルに桜石の顔も陰った。ユズルから目を逸らし、丸い頬をさらにぷくりと膨らませる。
静かな風が二人の髪を揺らす。淡い色の小石が舞い上げられ、軽やかな音を立てた。
「……しょうがないじゃん。あたし達、死神なんだから……」
***
広々とした集会場に数十人の少年少女が集められている。石造りのその建物は淡い色で統一され、少年少女が身にまとう紺色の衣装をより一層目立たせていた。
集会場の一角には床や壁と同色の石で底上げされたステージが用意されている。子ども達は皆ステージに体を向けてはいるものの、誰一人として注目する者はいない。
幼い笑い声がじゃれ合う声がざわめきとなって集会場に響き渡る。その中にユズルと桜石の姿もあった。
「ねえねえユズル! いよいよだね! わくわくするね!」
ぴょんぴょんと跳びはねながら桜石がはしゃいだ声をあげる。うん、と力なくうなずきながらもユズルは足元の小石に視線を落したままだ。
もはや慣れっこなのだろう。上機嫌で鼻歌を歌う桜石はユズルのことなど気にも留めない様子だ。
やがて集会場に一人の人物が現れると、少年たちもひとり、またひとりと談笑を止めて視線を向けた。
石造りのステージに上がり、その人物は集まった子ども達の顔をぐるりと見渡す。
紺色をまとった子どもたちとは対照的な白の装束を身にまとい、長く伸びた立派な髭も同じ色をしていた。深く刻まれたシワだらけの顔で微笑み、ゆっくりと口を開く。
「みんな待たせたの。今からパートナー選抜の儀を執り行うぞ」
老人の言葉にその場に集まった少年少女たちが歓声をあげる。静かにせんかと制する声も虚しくかき消され、老人は小さく溜息をついた。
「お前たちも、もう死神の任務には慣れてきたところじゃろう。今回、みなに与えられるパートナーは、今後のお前たちの仕事の効率を上げ、お前たちがより立派な死神になるための手伝いをするためのものじゃ。そして、今回の儀をもってお前たちを一人前の死神として認め、今後は本格的に任務にあたってもらうこととなる。よいな?」
はーい!!と元気な声が集会場に響く。みな笑顔で手を上げ老人の顔を見上げていた。
ただ一人、ユズルを除いては。
パートナー選抜の儀は集会場の奥に広がる深い森の中で行う。鬱蒼と生い茂る木々に紛れ、息を潜めているパートナー候補を見つけ出し、捕獲すれば終了となる。
パートナーの外見や生態は様々である。翼をもつもの、俊敏な足をもつもの、巨大なもの、人間の形に近いもの……。
死神とペアになったパートナーたちは情報の伝達や死亡した人間の魂の運搬、次のターゲットの捜索などを主に担当し、忙しい身となる一流の死神たちにとってなくてはならない存在となる。
「よおぉーっし! 頑張って探すよ、ユズル!」
両手でガッツポーズを作り桜石が威勢のよい声をあげる。その隣で俯いているユズルは依然として顔に暗い影を落としたままだ。
元気よく駆けだした桜石の背中をゆっくりと追いかける。時折振り返り、「早く早く!」と手招きする彼女の顔は好奇心に満ちてキラキラと輝いていた。
「ねえユズル! ユズルは、パートナーにするんだったらどんなのが良い?」
目を輝かせながら桜石が問いかける。森の中に響き渡る様々な鳴き声や同期の死神たちの声。そのひとつひとつが、桜石の想像を掻き立てる。
満面の笑みではしゃぐ少女を一瞥し、ユズルは宙を仰いだ。
「……うーん……。……どうでもいい」
「もー! ユズルなら絶対そう言うと思ったよ!」
頬を膨らませて桜石が声を荒げる。少し困惑した表情でユズルが彼女に視線を向けた瞬間、少女の背後の茂みで揺れた。
ちらりと見えたその体は淡いピンク色のふわふわとした『なにか』だった。眉をひそめてユズルが茂みを指差す。
「桜石。……うしろ」
「えっ?」
目を丸くして桜石が振り返る。不自然に揺れる茂みから飛び出すピンク色を見つけた途端、その瞳がらんらんと輝いた。
「みぃーつけたっ!!」
ワンピースをひるがえし、勢いよく茂みに飛び込む。桜石の姿が隠れると同時に幼い女の子のような可愛らしい悲鳴があがった。
ドタンバタンと茂みが騒がしく揺れ動く。しばらくの後茂みから顔を出した桜石が両手で抱きかかえていたものは、ふわふわとした毛並みを持つピンク色の小動物だった。
「ユズル! 見て見て、捕まえたよ!」
「ちがうのよ! アタシはまだ捕まってないのよ! 離してよ!」
桜石の腕の中でじたばたと暴れるピンク色の獣。紛れもなく、森の中で身を潜めていたパートナー候補だった。
腰をかがめユズルは小さな毛玉に顔を近付ける。威勢のよい性格といい、怒った顔といい、その獣は本当に―……
「……桜石そっくりだ」
「え!? うそぉ、そうかなあ? あたしこんなに可愛い?」
満面の笑みを浮かべながら桜石が体をよじる。その度にぶんぶんと振り回される獣が「ちょっと!」「やめなさいよちんちくりん!」と抗議の声をあげるも彼女の耳には届いていない様子だ。
桜石の胸を後ろ足で蹴り上げ、ピンク色の獣が腕の中から脱出する。地面にしなやかに降り立つと、まるでネコのようにぶるぶると体を震わせた。
「もう! アンタのせいで毛並みがぐちゃぐちゃなのよ!」
「ごめんごめん! ねぇ、あたしのパートナーになってよ。いいでしょ?」
「イヤよ! 騒がしいガキんちょは嫌いなの!」
頬を膨らませた小さな横顔がぷいとそっぽを向く。そういうクセまで桜石そっくりだ、とユズルは妙なところで感心していた。
ぽん、と手をたたき、少女はなおも満面の笑みで獣に問いかける。
「そうだ、まだ名前聞いてなかった! あたしは桜石。こっちはユズル。これからよろしくね!」
「……もう! 人の話を聞かない子はもっと嫌いなのよ!」
観念したようにピンクの獣が桜石に視線を戻す。長い尻尾を揺らしながら少女の前まで歩みを進め、その瞳をじっと真正面から見上げた。
「アタシは小梅。アンタ、このアタシがパートナーになってあげるんだから感謝するのよ!」
「うん! ありがと!」
小梅を抱き上げ桜石が幸せそうに笑う。良かったね、とユズルが声をかけると元気の良い返事が返ってきた。
深い森の中に少女の笑い声が響き渡る。選抜の儀はまだ始まったばかりだ。
・
・
・
「中々見つからないねえ。みんなどこにいるのかな?」
「ちょっとユズル! アンタもしっかり探しなさいよこのちんちくりん!」
前方から聞こえる賑やかな声にユズルは小さく息を吐く。気合いを入れている桜石や小梅には申し訳ないが、パートナー選抜の儀は彼にとって憂鬱なものでしかなかった。
この儀が終わったら一人前の死神としてこれからもっともっとたくさんの人間の死に立ち合わなくてはいけない。死期の近づいた人間を監視し、「その時」になったら人間から魂を切り離し迷わないように天界へと導く。
何度行っても慣れない、ユズルの大嫌いな仕事だった。
「……二人とも、もういいよ。あとは僕一人で探すから先に帰ってて……」
「ダメ! 絶対ダメだよ! 一人にしたら絶対ユズル帰ってこないもん」
図星だった。ピシャリと却下されユズルは喉を詰まらせる。
このままパートナー候補たちと一緒に森の中に息を潜め、死神業から少しでも逃れたいと思ったがそう甘くはないらしい。
はぁ、と諦めの悪い溜息をついた瞬間、前方から太い叫び声があがった。ピタリと足を止めユズルと桜石は木々の向こうを見やる。
やがて現れたのは丸々と太った少年だった。大きなお腹を揺らし、短い足を必死に動かしてもがくように走っている。恐怖に染まった表情を浮かべているその少年に桜石は暢気な声をあげて手を振った。
「おーい! バンター! なにしてんのー?」
「桜ちゃん、ユズル! お前たちこそ何してんだよお! 早く逃げろよー!」
「えー? どうしたの?」
膝に手をつき、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返すバンタを見て桜石は小首を傾げる。やっとの思いであげた丸々とした顔にはたくさんの汗が光っていた。
「あっちの方で、黒いヤツが暴れてるんだ! 俺も追いかけられて……って、来たあ!」
後ろを振り返りバンタが青ざめる。その視線を追って、桜石と小梅も同時に悲鳴をあげた。
真っ黒な毛並みをもつ獣が木々の間を駆け抜ける。ピンと立った耳に太い尾、わずかに開かれた口からは鋭利な牙が見え隠れしていた。
怯えた悲鳴をあげながらバンタが、桜石が、小梅がユズルの横を走り抜ける。
ユズルはただ、黒い獣から目を離せないでいた。
ぼんやりとした目で獣を見つめながら、ああ、ツメも黒いんだなあとか、鼻が濡れてるなあとか、どうでも良い思考を巡らせる。
「ユズル! なにしてるの!? 早く逃げてよ!!」
背後から桜石の悲痛な叫び声が聞こえる。
逃げようにも獣はもうユズルの目と鼻の先にいるのだ。今更どこへも逃げられない。
獣が跳躍する。二本の前足が真っ直ぐ突き出される。顔色ひとつ変えずに、ユズルはそれを受け入れた。
お腹の毛は少し薄くて白っぽいんだな、とか思いながら。
背中と肩に強い衝撃が走る。ぐるりと回った視界に黒い獣の牙がうつる。続いて赤い舌が、ピンク色の口内が、ユズルの視界いっぱいに広がった。
獣の息とゆっくりと滴る唾液が頬を撫でる。誰のものかわからない悲鳴がはっきりと聞こえるほど、その場は静寂に包まれていた。
「……お前、怖くないのか?」
ゆっくりと顔を離し、獣が問う。眉ひとつ動かさずユズルはいつもの憂いを帯びた表情を向けた。
「なんで? ……早く噛んでよ。ひと思いに」
「お前、死神のくせに自殺願望があるのか?……変なやつだ」
少年の願いとは裏腹に黒い獣はゆっくりとその小さな体を解放する。獣の動きに合わせて上体を起こすと、背後からバタバタと騒がしい足音が近付いた。
「ユズル! 大丈夫!?」
「なんだよもー! 心配かけるなよお!」
矢継ぎ早にかけられる言葉にユズルは一言「ごめん」とだけ返す。黒い獣に視線をうつし、小梅が全身の毛を逆立てた。
「ちょっとアンタ! びっくりしたじゃない! 心臓が止まるかと思ったのよ!」
「悪い。あのジイさんに頼まれたんだ。死神の子どもたちの肝っ玉を鍛えるためにちょっと脅かしてやれと。……そして、見事恐怖に打ち勝った者のパートナーになれと」
「おジイに? ……あ~……あのおジイならやりかねないなあ」
ユズルの背中を支えながら桜石が納得したようにうなずく。その隣で黒い獣とユズルを交互に見やり、バンタが感嘆の声をあげた。
「ということは、こいつがユズルのパートナーになるってこと? うわあー良いなあ! カッコイイなあ!」
「……じゃあ、あげる」
無気力に放たれたユズルの言葉にまんまるな顔がぱぁっと輝く。「オイ」と声を荒げて獣が牽制しなければ、そのまま滞りなく譲渡が行われていただろう。
「……まったく、お前は本当に変なやつだな。おい、変なお前。早く俺に名前をつけろ」
呆れた表情で獣がパートナーを見やると、下がりっぱなしの眉が訝しげにひそめられた。
「名前、ないの?」
「ああ。そもそも俺たちは過去に何人もの死神とパートナーを組んでいる。最初に組んだ死神につけられた名前をそのまま名乗り続けるものもいれば、俺のように新たにパートナーを組むたび名前を変えるものもいる。……分かったら、早くしろ」
急かすように唸る獣を見つめ、ユズルは首をひねる。面倒くさい。どうでもいい。そればかりが頭を支配し、とてもじゃないがまともな名付けなど出来る状況ではなかった。
「……くろ?」
小首を傾げながらぽつりと呟くと桜石が小さく吹き出す。あまりにも安直で適当な名付け。それに気付き、獣もぐるると唸った。
「もう少しカッコイイ名前にしろ」
「……まっくろ」
気だるそうに放たれた言葉にバンタも思わず肩を震わせる。金色の瞳でパートナーを睨みつける獣の口から承諾の言葉はでてこない。名付けられる方にも、多少なりと名前を選ぶ権利があるのだ。
「まろ……」
「もう、好きに呼べ……」
首を垂れて獣が落胆の息を吐く。くろもまっくろもまろも正直どれも気に入らないが、これ以上時間を割いても少年が真面目に名前を考えることはないだろう。
「ユズルに名付けを頼んだのが間違いだったね」
けらけらと笑いながら桜石が獣の頭をなでる。ぐるる、と低く鳴きながら獣はパートナーの顔を見やった。
その顔は依然として憂いを帯び、暗く沈んだままだった。
***
冷たい石で造り上げられたその乳白色の建物は、一目では見渡せられないほど広大であった。
中心に鎮座するのは集会場。そこから渡り廊下で繋がれ、クモの巣状に張り巡らされた数々の施設。
建物の裏には先程パートナー選抜の儀が行われた深い森がその口を大きく開け、反対側には死神達の寝室となる小さな石造りのコテージが集落のように広がっていた。
「…………はぁ」
小さく息を吐いてユズルは空を仰ぐ。今この瞬間に視界いっぱいに広がる空は集落を超え、仕事場を超え、集会場を超え森を超え、どこまでもどこまでも続いている。
腰かけていたコテージの屋根をそっと撫でる。ユズルたちに与えられたのはこのちっぽけな乳白色の世界だけ。もう一度少年が暗い溜息を吐いたころ、背後から心配そうな声が聞こえた。
「ここにいたのか」
ユズルがゆっくりと振り返ると、黒い毛並みのオオカミのような獣がゆらゆらと尻尾を揺らしていた。
「……まろ」
「結局それにしたのか」
パートナーの隣に腰を下ろし、まろが諦めたような息を吐く。それに答えることなくユズルは再び黒い空を仰いだ。
頭上の広がる満天の星空。その小さな輝きのひとつひとつを、ただ何の感動も抱かずにじっと見つめていた。
「……お前みたいなジメジメした死神は初めて見たぞ。何がそんなに不満なんだ」
「……不満っていうか……」
ゆっくりと視線を落とし眉をひそめる。夜の闇に溶け込むような紺色の死神装束。それを目立たせるための乳白色の石についた手のひらに、ぐっと力を込める。
「……いやなんだ。人間が死ぬところとか、もう見たくない」
「そんな事言って仕方ないだろう。人間には一人一人決められた寿命がある。お前がどんなに拒んだって、その人間が生きながらえる訳じゃない」
「……わかってるよ。……わかってるけど……」
目を閉じたユズルの瞼の裏に今まで死んでいった人間たちの顔がよみがえる。
苦痛の表情を浮かべて死んでいったもの。病院のベッドの上で眠るように死んでいったもの。
取り残された人々が泣き叫ぶ悲痛な声を聞くたび小さな胸の中に芽生えるのは、押し潰されそうになるほどの罪悪感。
そう。それはまるで、自分が殺したかのような罪悪感だった。
「……お前は、死神には向いていないな」
まろがそう呟くと、「僕もそう思う」と同意の声があがる。こんな気の重くなるような仕事は、桜石のような底抜けに明るい性格のものが向いているのだ。
再び広大な星空を見上げユズルは目を細めた。
「……僕、人間に生まれたかったなあ。人間だったら、こんな狭いところに閉じ込められることもなく、のびのびと自由に生きられたのに」
その隣でまろも同じように空を仰ぎ見た。この空が続く先に広がる人間の世界。
すう、と目を細めて思いを馳せる少年の隣で、まろはただ無限に広がる輝きを見つめていた。
ユズル
いつも物憂げな表情を浮かべている死神の少年。
人間の魂を迎えに行く、という任務が大嫌い。
多香菜に出会ってから、少しずつ明るさを取り戻してゆく。
まろ
ユズルのパートナー。黒く大きな獣の姿をしている。
元気のないユズルをいつも心配している、面倒見の良い性格。
桜石(さくらいし)
元気いっぱいで前向きな女の子。ユズルとは大の仲良し。
自分の気持ちに正直で隠しごとは出来ないタイプ。
さみしがりやな一面もある。
小梅(こうめ)
桜石のパートナー。ピンク色のふわふわとした毛並みが愛くるしい。
高飛車でツンデレな言動をとるが、桜石のことは大切に思っている。
バンタ
ユズルと桜石の幼馴染。おおらかな性格の少年。
のんびりとした言動と行動はよく桜石のツッコミの的になっている。
人なつっこく、誰とでも仲良くなる。
多香菜(たかな)
街並み外れた住宅街で一人暮らしをしている大学生。
霊感があり、ユズルたちの姿が見える。子どもと動物が好きな優しい性格。
何事にも動じず、穏やかながら肝の据わった女性。