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番外編 黒のフリーク

―・・・記憶の中の少女は、いつも笑っていた。

太陽のような髪と笑顔。二つ歳の離れた兄と同齢のその少女は、套矢にとって姉のような存在―・・・

・・・かと思えば、そうでもない。
心の中の喜怒哀楽をそのまま受け入れていた少女は、ころころと表情を変えては套矢と祷葵を振りまわしていた。比較的落ち着いた性格であった兄と正反対の、天真爛漫なその少女は、套矢から見れば同年代か、はたまた年上の妹のような存在であった。

そして、その少女は、いつも笑っていた。

「・・・はあ。」
小さく吐いた溜息が、やけに大きく響く。ベッドの上でゆっくりと上体を起こし、套矢は自身の左胸に手を這わせた。ちくちくと主張するその痛みは、手術した名残か、それ以外か。
ぐるりと部屋を見渡す。やわらかな色合いの学習机が目に入る。椅子に背負わせている黒いランドセルは、かつて自分と一緒に毎日学校へ通っていた学友だ。兄とお揃いのキーホルダーをぶら下げたりして。
手術痕に響かないよう、そっとベッドから這い出し、学習机の前に立つ。木目調の引き出しに手をかけ、ゆっくりと手前に引く。カラカラと音を立てて転がる鉛筆、使いかけの消しゴム。
それらの間から顔を覗かせる、小さなドラゴンの人形。ゴム製のツメをいっぱいいっぱいに広げ、赤い瞳で一生懸命威嚇している。
套矢の脳裏に、一人の少女の顔がよみがえる。ほんの数ヶ月前のことなのに、ひどく懐かしく感じる。

あれは、暑い夏の昼下がりだった。ヒリヒリと焼けつくような日射しと、絶え間なく聞こえるセミの声。
汗だくになりながら、いつものように三人で駄菓子屋に駆け込む。今日はアイスにしようか、ジュースにしょうか、などと他愛もない言葉を交わしながら。

「・・・あっ!」

十分に冷えたジュースを片手に、紅髪の少女が足を止める。何か良いものを見つけたのか、見開いた瞳を輝かせてお菓子の積まれた棚を凝視していた。
「朝奈、どうしたのー?」
後ろからひょいと覗きこみ、套矢も同じように感嘆の声をあげた。
パッと目を引く黄色いPOPには、赤い字で新発売と大きく掲げてある。その下に並べられた箱には、今子どもたちが夢中になっているアニメの絵が描かれていた。
どうやら、ラムネと一緒にアニメのキャラクターを模したゴム人形がランダムでひとつ、同梱されている という商品らしい。それだけで、子どもたちの心を鷲掴みにするには十分だった。

「しんはつばい、だって!」
「いいなあ~。」

わいわいと棚の前で盛り上がる套矢と朝奈。その後ろから、少し落ち着いた少年の声がなだめる。套矢の隣に並び、手に持ったジュースの缶でその頭を軽く小突いた。

「ダメだぞ、套矢。今週のおこづかい全部使っちゃっただろ?」
「え~・・・でも欲しいよお。」
「あたし、これ買う!」
「ずるいよ、朝奈!」

箱をひとつ手に取り、勝ち誇ったような笑顔を浮かべる朝奈を見やると套矢が不満げに頬を膨らませる。
やれやれ、と呆れたように笑い、祷葵がズボンのポケットに手を入れる。中から銀色の硬貨を二枚取り出すと、口を尖らせている祷葵の目の前に差し出した。

「套矢、ほら。」
「え?・・・えっ!?良いの!?」
「父さんには内緒だぞ。」

そう言って笑うと、曇っていた套矢の顔がぱあっと明るくなる。ちゃりん、と音を立てる二枚の硬貨を握りしめ、「ありがとう、兄さん!」と満面の笑みを浮かべる。小さな箱を手に取り、朝奈と並んでカウンターへと駆けてゆく。その後ろ姿を、祷葵は柔和な笑みを浮かべて見つめていた。

各々戦利品を抱えて、店を出る。入口の横に置かれているベンチに並んで腰をかけた三人の視線は、二つの小さな箱に集中していた。
わくわくと瞳を輝かせながら箱を開封する朝奈と套矢の手のひらに、ほぼ同時に転がり落ちたゴム人形。

「ええ~・・・」

朝奈の表情がみるみるうちに曇る。それもそのはずだった。
朝奈の手のひらでは、パッケージに描かれている白いドラゴンと形すら似ているものの、黒い体に赤い瞳をもついわゆる「敵キャラ」の人形が憎たらしい表情で威嚇しているのだから。
「・・・う・・・。」
「お、おい。朝奈?」
ふるふると肩を震わせる朝奈を見やり、祷葵が狼狽した表情を見せる。一度泣きだせばその涙は枯れることを知らず、宥めて泣きやませるのに相当な時間と労力を消費することを良く知っているからだろう。

じわじわと瞳に涙を浮かべる朝奈と、その隣で困惑しきっている祷葵を一瞥し、套矢は自分の手のひらでころんと揺れるゴム人形に視線を戻す。
白い体、大きな翼、愛くるしい表情を浮かべている小さなドラゴン。
アニメのタイトルと同じ名をもつ、三人が夢中になっているヒーローだった。

ぐっ、と決心したようにその人形を握りしめ、套矢はおもむろに朝奈の手のひらから黒いドラゴンをむしり取る。目を見開き、ぽかんと呆気にとられている隙に、自身が引き当てた白いゴム人形を半ば押しつけるようにして握らせた。
その間、わずか2秒。状況を理解できずにしばし硬直していた朝奈だったが、やがて曇っていたその表情に光りが戻り始めた。

「・・・套矢、いいの?これ、套矢が・・・。」
「いいよ。朝奈にあげる。」

そう言って満面の笑みを朝奈に向ける。套矢と同様の表情を浮かべながら、朝奈は大事そうにその小さな人形を握りしめた。
「ありがとう、套矢!あたし、ずっとずっと大事にする!一生の宝物にする!」
「・・・おおげさだよ・・・。」
指先で黒いゴム人形をいじりながら、そっと朝奈から目を逸らす。

満面に咲いた朝奈の笑顔は、まるで太陽そのものだった。
眩しくて、温かくて、直視できないのだ。

「・・・俺も、大事にする・・・。」

誰にも聞かれないように、ぽつりと呟く。黒い人形を見つめる套矢の眼差しは、まるで愛しいものを見るような穏やかな表情に満ちていた。

―・・・そうだ。ただのゴム人形なら、こんな気持ちにはならない。
黒い敵キャラ。つまり「ハズレ」の人形に、こんな感情は抱かない。

自覚していた。自分の中に芽生えた、小さな小さな想いに。
わかっていた。その想いが、決して実らないことを。

***

「・・・兄さん・・・。・・・朝奈・・・。」

気がつくとそう口に出していた。套矢の瞳から、ぽろぽろと熱い雫が溢れてはこぼれ落ち、黒いドラゴンを濡らす。
「会いたいよ・・・・・・。」
叫び出しそうになる喉をぐっと抑えつける。次から次へと溢れ出す涙に、頭の奥がじんじんと痛む。

この黒いゴム人形が、套矢に残された「記憶」のすべてだった。「思い出」のかけらだった。
自分と兄を、そして幼馴染の少女をつなぐ最後の糸だった。

いつか誓った通り、大事に大事に持っていたのだ。古斑の家に連れてこられてから十数年。套矢の心の支えはこの小さなゴム人形だけだった。

***

「・・・それで、決まったのか?」
「え?」

間の抜けた声が口をつく。呆れたように小さな溜息をひとつ零し、耕焔が続けた。
「河拿研究所に送り込む刺客のことだ。雛形となるものを用意しろと言ったはずだ。」
「・・・ああ・・・」
思い出した、と言わんばかりに套矢がぽんと手を叩く。肩をすくめ、耕焔は套矢に背を向けて廊下の奥へと足を進めた。
「この際、犬でも猫でもなんでも構わん。早めに頼むぞ。」
「・・・はい。」
とりあえずの返事を返したはいいものの、套矢の脳内はまるで白紙だった。
いきなり未知の生物を作れと投げ出されても、套矢の乏しい記憶は、想像力を補うには不十分すぎた。

「・・・なんかないかなあ。」
部屋に戻った套矢の口から思わずそんな独り言がついて出た。子どもの頃は広く感じたこの部屋も、今とはっては窮屈で雛形の手掛かりになるようなものなど見当たらない。

「うっ・・・!!」

突然激しい頭痛に襲われ、套矢の体がぐらりと揺れる。遠くなる意識が、「もうひとつの人格」が主張を始めたことを物語っていた。
「・・・やめ、ろ・・・!出てくるな・・・!」
頭を押さえ、ぶんぶんと振りかぶる。しかし、そんな抵抗も虚しく套矢の視界は徐々に闇へと沈んでゆく。
最後に見た己の手は、何かを掴もうと伸ばしかけていた。

「・・・う・・。」
ベッドの上で目を覚ます。どうやらあのまま気を失っていたようだ。
布団の上に無造作に横たえていた体を起こす。机の上の時計に目をやると、部屋に入ってからほんの十分程度しか経過していないことがわかった。
気を失っていたことを考えると、「もうひとつの人格」が活動していたのはほんの数分。その数分でなにがしたかったのか、考えても答えは出ずに套矢は途方に暮れたようにがしがしと頭を掻いた。

「・・・ん?」

右の手のひらに違和感を覚え、套矢は握りしめていたその手をそっと開いた。ころん、と転がるおよそ4センチくらいのゴム人形が、赤い瞳を向けている。
「なんだこれ?“あいつ”が?」
首をひねり、手のひらの人形を観察する。黒い体、大きな翼、鋭い爪、長い尾。
こんなのが奇襲をかけてきたら、いくら河拿とはいえどひとたまりもないだろう。
「・・・これでいいか。」
ゴム人形をポケットに突っ込み、部屋の扉に手をかける。廊下の先に見慣れた背中を見つけ、套矢は声を張り上げた。

「父さん!いいところに・・・。」

***

「これが?」
小さなゴム人形をつまみあげ、くるくると回しながら耕焔が眉をひそめる。こくりと頷いた套矢に、訝しげな声が向けられた。
「套矢の・・・“あいつ”の趣味か?」
「多分。気が付いたら持ってたんです。丁度良いと思って。」
「ふん、“あいつ”も案外子どもっぽいところがあるんだな。まあ良いだろう。これで作れ。」
「了解。」
投げて返されたゴム人形を受けとめ、套矢は廊下の奥に消えてゆく背中を見送った。

「・・・子どもっぽい、ねえ。」

そうひとりごちて、手のひらの黒いドラゴンを見やる。駄菓子のおまけについてくるような、ちゃちな造りのゴム人形。
こんなものを二十歳になった今でも大事に持っているのだから、否定はできない。

「・・・確かに。」

ふふ、と笑みを漏らして人形をポケットに仕舞う。

そうして廊下を歩きだす套矢を、「もうひとつの人格」もじっと見つめていた。
ポケットの中の、確かな存在を感じていた。

これが、この黒き異形が、俺から兄さんに、そして朝奈に向けた、最後のメッセージ。

どうか、気付いて。  そして―・・・

どうか、たすけて。

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後日談 はじまらない夜

「12月24日は何の日だ?」
「・・・は?」

突然投げかけられた質問に、套矢は思わず眉間に皺を寄せた。
いつものように、ニヤニヤと軽い笑みを浮かべているカヤトは、口を開くやいなやそんな妙ちきりんなことを言い出す。
眉をひそめたままの套矢に痺れを切らしたのか、カヤトはより一層笑顔を濃くして再度同じ質問を投げかけた。

「12月24日は何の日だ?」
「・・・クリスマスイヴ、でしょ。」
「そう!その通り!」

嬉しそうに両手をぽんと合わせ、カヤトは表情を崩さないまま言葉を続ける。しかし、その内容と相まってカヤトの笑顔は先程と比べてひどく自虐的なものに感じ取れた。

「・・・で、そのクリスマスイヴに、何で俺はこんな色気のない所にいるのかな、套矢?」

(・・・俺に言われても困る)
はあ、と小さい溜息をついて套矢は自身の黒髪を掻きあげた。

事の始まりは数時間前。沈み始めた太陽が辺りを薄闇に染め上げる頃だった。
今日一日、ずっと落ち着かない様子の瑞煕が最初に研究所を後にし、その30分後には朝奈も祷葵と一緒に夜の街へと消えて行った。
数少ない女性陣が全員出払い、男一色になった河拿研究所に、浮かれ足でのこのこやってきたのがこの男、古斑カヤトだ。
おおかた、瑞煕と一緒にクリスマスを過ごそうなどと企んでいたのだろう。男しかいないこの状況に目を丸くしたカヤトに、套矢が上記のことを伝えると「つまらない!つまらない!」 と子どものように駄々をこね始めたのだから手のつけようがない。
頭の上に暗雲を乗っけて見るからに脱力しているカヤトの気をなんとか紛らわそうと、套矢は努めて明るく声をかけた。

「まあ、そう気を落とすなって。あと二人来るからさ、そうしたらクリスマスパーティーを始めよう。」
「えっ!?誰?誰?女の子!?」

ぱあっと顔を輝かせ、ぐいぐい体を乗り出してくるカヤトに、套矢は内心しまった、と思った。
このままでは先程よりも深く傷つくことになるだろう。しかし―・・・

ピンポーン―・・・

「っ!!来たみたいだな!」
時すでに遅し。玄関のセンサーが来訪者を告げる音が部屋に響き、カヤトが弾かれるように飛び出した。套矢も慌ててその後を追い、玄関へと向かう。
誤解を解く暇など無かった。頭の中を甘い期待でいっぱいにしたカヤトが落胆した姿が容易に想像できる。そして、それはすぐに現実となった。

「なんだよ!男じゃないか!」

玄関で頭を抱え出したカヤトに、套矢は「女の子だなんて一言も言っていない。」と告げるので精一杯だった。出会い頭にいきなり怒号を浴びせられ、遷己と暁良がきょとん、と首を傾げる。
「・・・なに。どうしたの、この人。」
「ほっといて良いよ。買い出しお疲れさま。」
遷己からビニール袋を受け取りつつ、横目でカヤトを見やる。

―・・・やれやれ、ほんの一週間前ほどに「理子にふさわしい男になる。」と豪語していたのはどの口だ。
呆れたように小さく肩を落としながら、套矢はスリッパを鳴らしながら廊下を進む。背後から聞こえる遷己と暁良の話声。そして、ひとつテンポが遅れて鳴る沈んだ足音。
理子に会えない以上、カヤトが実在する他の女子や瑞煕に執着するのは仕方のない、ことなのかもしれない、けれど―・・・

(間違っても瑞煕に手を出した日には、兄さんや遷己、瑞煕の彼氏くんに袋叩きにされるんだろうなあ)

それだけではなく、きっと朝奈だって黙ってはいないだろう。怒りに身を任せている彼女の姿を想像し、套矢は静かに体を震わせた。
なんとしても、それだけは避けたい。万が一にもカヤトのとばっちりを受けて、こちらにまで飛び火してくるのはごめんだ。ビニール袋の持ち手をギリ、と握りしめて套矢は固く決意した。

―・・・

遷己と暁良が買ってきた料理を、食堂の長テーブルの上へと運ぶ。
クリスマスらしいオードブルにチキン、さらには寿司までもが用意され、和洋折衷なごちそうが並ぶ頃にはカヤトの機嫌もすっかり治っていた。

「それじゃ、カンパーイ!!」
かんぱーい、と声を合わせてグラスをこつん、と合わせる。中に注がれているのがシャンパンなどの洒落たものではないことを、黄金色の炭酸に覆いかぶさった白い泡が物語っている。
喉を鳴らして厚い泡と一緒にアルコールを体内に流し込む。途端に、指の先まで痺れるような快感に襲われる。心身共に凍えてしまいそうなこんな真冬の夜でも、冷えたビールというのは美味しく感じるものだ。

「そういえばさ、クリスマスなんていう書き入れ時によく二人ともバイト休めたよね?」
オードブルに舌鼓を打ちつつ、カヤトが遷己と暁良に問いかける。アルコールが入ってすっかり気を良くしたらしい。その顔には締まりの無い笑顔が浮かんでいた。
「俺はもともとバイト休むつもりだったよ?クリスマスは瑞煕と一緒に過ごすつもり・・・だったのに・・・。」
遷己の顔がみるみるうちに曇ってゆく。皆一様に「ああ・・・」と察したような声を漏らし、誰からともなく遷己から視線を外す。
套矢やカヤトも、この短い付き合いの中で、遷己が妹である瑞煕のことを猫可愛がりしていることは容易に察することができた。今でこそ大分打ち解けたものの、最初は一緒に研究所で 暮らすことになった套矢のことを警戒して、瑞煕に近付かせまいと奔走していたものだ。
その妹が、クリスマスイヴのこの夜に男友達(まあ、おそらく彼氏だろう)と二人で出掛けているともなれば気が気じゃないのは当たり前だ。
かける言葉も見当たらず、套矢は行き場を失った声を飲み込むようにグラスに口をつけた。

「瑞煕、カレシくんとデートかあ。・・・こりゃ朝帰りコースかもな。」
「ぶっ!!」

飄々としながら放たれたカヤトの言葉に、套矢と遷己は同時に勢いよくビールを吹き出した。
うわ!と小さな悲鳴をあげた暁良とは対照的に、カヤトは以前としてへらへらと笑っている。
「なんてこと言うんだよ!ありえないから!ってゆーか、友達って言ってたし!彼氏じゃないし!!」
げほげほと咳き込みながら、遷己が早口で捲し立てる。認めたくないのだろう。見ている方が可哀想になるくらい必死だった。
単に遷己をからかいたかったのだろう、カヤトが満足そうに笑っている。悪い癖だ。こぼしたビールを拭き取りながら套矢は横目でカヤトを睨んだ。

「・・・でもさ、仮に彼氏じゃなかったとしても、クリスマスイヴに二人っきりで過ごすってことは・・・。」
ぐるん! カヤトを睨んでいた遷己の顔が、勢いよく暁良へと向けられる。
遷己が背負っているどす黒いオーラを可視できたのか、その鬼気迫る表情に圧倒されたのか、暁良の肩がびく、と跳ねあがった。
「・・・す、少なくとも、さ・・・。」
遷己を包む黒いものがずずず、と濃くなってゆく。暁良の額で汗が光る。
ごくり、と唾を飲み込んで暁良が気休めばかりの笑顔を浮かべる。が、大分ひきつっていた。無理もない。
「な、なんか・・・お互い、好き合っていたり、とか・・・。」
「うおおおおおおおおおおおいっっっ!!!」
暁良が言い終わらないうちに獣のような叫び声があがる。次の瞬間、遷己が椅子を蹴飛ばす音と暁良の悲鳴が同時にあがった。
「暁良まで!俺を追い詰めるというのか!この!この!」
「いっててててて!やめ・・・!やめろよ!俺はただ第三者として、客観的な意見をををおおっ!」
固く握ったげんこつで両のこめかみをぐりぐりとえぐられ、暁良が派手な音を立てて暴れ回る。
ガタン!バタン!とテーブルが振動し、骨つきのチキンが宙を舞う。とりあえずビールのグラスを持ち上げて避難させ、套矢はさすが朝奈の弟だ、物事を冷静に見ている、などと暢気な笑みを浮かべた。

(それにしても・・・)
遷己とじゃれ合っている暁良を見やり、套矢は手元のグラスに視線を落とした。あの時、4歳だった暁良とこうして酒を飲んでいるなど、なんだか不思議な感覚に襲われるものだ。
しかも、暁良も套矢のことを覚えていたというのだから驚きだ。記憶力の良さも姉ゆずりらしい。
(・・・って、何で朝奈のことばかり考えてるんだろう、俺は・・・。)
大きくかぶりを振って思考を打ち消す。こんな感情は、遥か昔に置いてきたはずだったのに。

「・・・ん?どうしたんだ、套矢?」
一人で動揺していた姿を見られたらしい。隣から飛んできた声に羞恥心を煽られ、套矢はろくに思考しないままぎこちないだろう笑顔を浮かべる。
「な、なんでもないよ、兄さん。」

(―・・・しまった)

言い終えてから気付き、套矢は凍りついた。瞬時に笑顔が消え、全身から汗が噴き出す。
一瞬目を丸くしたカヤトが、ニヤニヤとたちの悪い表情を浮かべる。ここで動揺を見せてはカヤトの加虐心を煽るだけだ。
極めて冷静に、努めて冷静に、出来る限り冷静に、対処しなければ。
「・・・ごめん、間違えた。」
「いや間違えてないよ!?俺も一応套矢の兄さんだからね!?」
「ああ・・・“元”ね。」
「ええ!ひっどい!套矢がいじめる!套矢がいじめるんだけどー!」
ぐらぐらと体を揺らしながら声をあげて同情を集めようとしている。そんなへらへらとした口調と顔じゃまったく説得力がないのだけど。
しかし、どうやらカヤトの気を逸らすことは叶ったようだ。アルコールも進み、かなり面倒なことになっているカヤトに絡まれてしまってはせっかくのパーティが台無しだ。
安堵の息を吐いてグラスを傾ける。気がつけば、遷己と暁良の方も終戦を迎えたようだ。テーブルの上に上半身を預け、平べったくのびている。
「あーあ。祷葵も今日はデートかあ。良いなあ~。」
先程の套矢とカヤトの話を断片的に聞いていたのだろう、話題の矛先が研究所を留守にしているもう一人の人物の方へ向かう。
ちくりと胸を刺すわずかな痛みを感じながら、套矢が同意する。それと同時に、カヤトが嬉々とした声をあげた。

「ってゆーか!所長さんと副所長さんこそ朝帰りコースっしょ!?」
「・・・生々しいからやめて・・・。」

カヤトの言葉に、套矢と暁良が一言一句違わぬ抗議の声をあげながら同時に頭を抱える。誰しも、肉親のそんなプライベートには踏み込みたくないものだ。
そのどっちの悩みにも属さない遷己が、のんきな声を套矢に向ける。
「なあなあ、祷葵と朝奈さんっていつからそういう関係になったの?一緒に研究所にいる間は、あんまそういう素振り見せなかったんだけど。」
「・・・俺はちっちゃい時しかわからないからなあ。あの時もすごい仲は良かったけど。・・・暁良は知ってる?」
「えっ?」
急に話題を振られて暁良が目を丸くする。低く唸りながら首をひねり、記憶を必死に辿っているようだ。
「・・・いつからかな。ずっと一緒にいたみたいだし。・・・でも、付き合いだしたとか、なら・・・多分、高校の時くらいだと思う。その頃から・・・なんつーか、姉ちゃん、変わったし。」
ビールの入ったグラスを回しながら、ぽつりぽつりと自信なさげな声をあげる。・・・否、自信がないのではなく、言うのを躊躇っているようだった。
無理もない。今から9年前に当たるその時期は、丁度河拿研究所の前所長とその妻が無念の死を遂げた時期と一致している。
今まではっきりしなかった二人の関係が、両親の死を目の当たりにして傷心している祷葵を朝奈が励ましているうちに、ということなのだろう。
それならば納得がいく、とばかりに套矢が深く頷いていると正面から不意に声がかかる。

「・・・で?套矢はどうなの?」

「・・・・・・ん?」
質問の意図が分からず、思わず聞き返す。カヤトと暁良の視線が、遷己と自分の間を往復しているのを感じた。
「だから、套矢はどうなの?朝奈さんのこと好きなの?」
「は?・・・・・・はあっ!?」
遷己の口から紡がれた爆弾級の言葉に、套矢は思わず素っ頓狂な声をあげた。
何故だ、どうしてそんな話になるんだ?先程とは比べ物にならない冷や汗が背中を濡らし、脳内では意味のない思考と言葉がぐるぐると渦巻く。

「遷己。なんで、そう思うの?」

やっとの思いでそう質問返しをする。きょとんとした顔で言葉を続ける遷己を、瞬きも忘れて見つめる。
「だって、朝奈さんと祷葵は物心ついた時からずっと一緒で、套矢ともずっと一緒だった訳だろ?なんか特別な感情を抱いたりしなかったのか?」
「あ、そういえば姉ちゃん、套矢さんから貰ったっていうオモチャずっと大事に持ってた!」
「へえ~・・・プレゼントですか。好きな子にオモチャをプレゼントしたんですか套矢くん?」
三方向から次々とあがる声に責め立てられ、套矢は自分の脳が徐々に思考を放棄していくのを感じた。
「違う」と一言言えばそれで済む話なのに、震える唇が、うるさいくらいに脈打つ心臓がそれを許そうとしない。

「・・・朝奈、は・・・。」

套矢を見つめる三人の好奇の眼差しが強くなる。じりじりとした焦燥感が肌を焼く。
なるべく自然な、力の抜けた笑顔を作り、套矢は三人の顔を見渡した。
「・・・少し手のかかる、姉みたいな存在かな。」
その言葉に、納得の声を漏らしたのは暁良だけだった。弟という立場にいる以上、何かと苦労することも多い。套矢と暁良が同情の眼差しを送り合っている中、遷己が不満そうに口を尖らせた。
「それだけ?本当になにもないの?」
「ないってば。大体、俺はもうちょっと大人しい子が良い。」
「!!・・・言っておくけど、瑞煕に手は・・・。」
「出さないよ。」
袋叩きに遭うのはごめんだ、とばかりに首を振る。遷己は少し安心したような、それでもまだ複雑そうな表情を浮かべている。―・・・このまま納得してくれれば良いのだけれど。
「・・・じゃあさ。」
そうもいかなかったようだ。遷己の好奇心は止まるところを知らないらしい。観念したような溜息をひとつ零して套矢は言葉の続きを待つ。
「ちっちゃい時は、手のかかる姉だったかもしれないけど、今はどうよ?朝奈さんって、すっげえ美人だしスタイルも良いし、面倒見も良いし、あと・・・。」
「・・・え、遷己。ああいうのが良いのか?絶対苦労するぞ?」
思いつく限りの美辞麗句を並べる遷己に、暁良は若干ひきつった表情を向ける。朝奈に対する賛辞を指折り数えていた手をぴたりと止め、我に返ったらしい遷己は真っ赤になって慌てふためいた。
「ち、違う!そういうんじゃなくて!なんていうか、その!せ、成長したら印象とか変わるだろ!?久しぶりに会ってみてどうだったんだよ!?」
「どうだったもなにも、朝奈は朝奈のまんまだよ。ちっちゃい時からなにも変わっていない。」

―・・・そう。なにも変わってはいないのだ。
太陽のような笑顔も。気の強い性格も。面倒見が良いところも。すぐ泣くところも。その視線が、いつも追いかけている人物も。

「じゃあ、今も朝奈さんは套矢にとってお姉ちゃんのような存在なのかー。」
「そのうち、本当の姉になるかもしれないしな。」

一気にどよめく三人の声を浴びながら、套矢は笑う。結婚か、式はいつだ、と気の早い話で盛り上がっているのを満足気に見つめる。
このまま、話題が逸れて行ってくれるのを願いながら、笑う。

「でもさ、所長さんと副所長さんが結婚しちゃったら、套矢は寂しいんじゃないの?」

(この男は・・・!!)黒い瞳で套矢がギロリと睨みつけるも、カヤトはへらへらとしている。まだまだからかい足りないらしい。
「さ、寂しいわけないだろ。兄さんと朝奈が幸せになってくれるのが、俺の一番の願いなんだから。」
満面の笑みを向けているものの、套矢の額には青筋が浮かんでいる。え~?と煽るような声をあげて開かれたその口内にすかさずテーブルの上のチキンをねじ込んだ。
続けて発せられるはずだった言葉が、もごもごと消えてゆくのを聞いて満足げに息をつく。

(今頃、兄さんも朝奈と一緒にクリスマスを楽しんでいるんだろうな)

窓の外へと視線を向ける。大きく取り付けられたガラスの向こうに広がる暗闇で、白い粒が踊っているのが見えた。
今、この空の下で。たくさんの恋人たちが愛を交わし合っているのだろう。今宵この場にいない3人も、その例外ではないのだろう。

(・・・喜ばしいことなのに。俺がずっと望んでいたことなのに。)
(・・・兄さん)

それでも套矢は、懇願せざるを得なかった。祈るように、すがるように、天井をあおぐ。隣から、自分を呼ぶ声が聞こえる。笑っている。
食堂を見下ろす白い蛍光灯を、套矢はただぼんやりと見つめていた。

(・・・早く帰ってきて・・・兄さん)

夜は、まだはじまったばかりだ。

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第21話 はじまりの夜

1.

広い病院の待合室に、一人の男の姿があった。
すらりと高い背丈に、端正な顔立ち。気だるそうな雰囲気も合わせて、その男は周囲の女性の視線を集めるには十分な存在感を放っていた。
こつ、こつ、と音を立てて二つの足音が男に近付く。音の方に視線を送り、男はゆっくりと腰をあげた。
「お久しぶり、所長さん。套矢も。」
「ああ。急に呼びだしてしまって悪かったね、カヤト。」
祷葵が労いの言葉をかけると、カヤトはいいえ、と首をふった。

病院内の喫茶店に場所を移し、コーヒーの湯気が漂う中で、祷葵はゆっくりと口を開く。
「耕焔の様子はどうだ?」
「やっぱ、不治の病は変わらないって。でも、きちんと治療と闘病を続けていればそれなりに長生きできるらしいよ。ほんっと、しぶといというかなんというか。」
呆れたように肩をすくめるカヤトの口調は、どこか嬉しそうだった。そうか、とだけ言い祷葵はコーヒーをすする。その隣で、套矢が率直な疑問をカヤトにぶつけた。
「・・・そういえば、カヤト。あの日一体どこに行ってたの?ケータイにも出ないし、父さんもすげー心配してたんだけど。」
「・・・ん?・・・うーん・・・。」
言いにくそうに言葉を濁しながら、カヤトは祷葵と套矢の顔を交互に見やる。そして、さもおかしそうにくすくす笑い出した。訝しげに眉をひそめる兄弟をなだめるように笑いながら口を開く。
「ごめんごめん。やっぱ所長さんと套矢って、こうやって並んでるとこ見ると似てるよね。ホンモノの兄弟なんだなぁ。・・・俺みたいに、作られた偽物の兄弟じゃなくてさ。」
悲しげに目を伏せ、カヤトが自嘲気味に続ける。
「・・・俺さ。套矢の兄ちゃん役やらされるためだけに貰われてきたって、ずっと親父に言われ続けて。なんつーか、すっごい悔しかったんだよね。しかも、当の本人は全然俺に懐いてくれないし。
だから、親父に気に入られたくて、がむしゃらにがんばって。・・・自分の彼女まで殺してさ。バカみたいだよ、ほんと。」
眉をひそめ、目を閉じるカヤトを、祷葵も套矢もただただ無言で見つめていた。
まるで贖罪するかのように、カヤトはぽつりぽつりと話しを続ける。
「・・・今思えば、こんな俺を真っ直ぐに愛してくれたのって、理子だけだった。だから、所長さんが理子のクローンを作り始めたって聞いた時、正直嬉しかったよ。また理子に会えるんだって思ってさ。・・・だけど、実際に会ってみて分かったよ。やっぱり、理子はもうどこにもいない。俺はもう二度と、理子には会えないんだって。・・・そんで、あの日はずっと傷心してた。」
「・・・ずっと?ケータイにも出ずに?」
「ケータイ捨てちゃったもん。」
あっけらかんとして言うカヤトに、套矢は呆れた様な溜息をついた。その隣で、祷葵がくくく、と声を押し殺しながら肩を震わせる。つられて、套矢とカヤトも同時に笑い声をあげた。
ひとしきり笑ったあと、カヤトはふと真剣な表情になる。そして、祷葵の顔を真正面から見すえた。
「・・・俺が理子にしたこと、絶対に許されることじゃないのはわかってる。・・・だけど、だからこそ、これからは真剣に生きて行こうと思う。あの世に行った時に、理子に釣り合うような男になれるように。」
「ああ。良い心がけだ。・・・確かに、お前のしたことは許されることじゃない。しかし、私たちはもう、お前を恨んでもいない。」
え?とカヤトが声をあげる。柔和な笑みを浮かべて、祷葵はカヤトを呼んだ本当の理由を話した。
「それで本題なんだが・・・。カヤト、うちの研究所で働く気はないか?耕焔が入院している間の、少しの期間でも構わない。うちも今、少しでも人手が欲しいところなんだ。」
「・・・いいの?本当に?俺なんかが?」
目を見開いて、カヤトは矢継ぎ早に質問を繰り出す。ああ、もちろん。と言葉を返すとカヤトの顔に満面の笑顔が浮かんだ。ふふ、と微笑んだあと、祷葵は意地の悪そうな笑みを浮かべる。
「ただし、条件がある。瑞煕に手をだしたらクビだ。」
「うっ・・・。だ、大丈夫だって!もうキッパリスッパリ振られてるし。」
「なんだ、もう手をだしていたのか。じゃあクビだ。」
「えっ、ちょっ、ごめんごめん!許してお願い!」
慌てて手を合わせるカヤトを見て套矢が笑い声をあげる。テーブルの上で、深い色のコーヒーが小さな波紋を作った。

喫茶店を後にすると、辺りは大分薄暗くなっていた。手に持っていた紙袋を祷葵に差し出し、カヤトが笑う。
「所長さん、これ。理子・・・じゃないや、瑞煕の入院見舞い。・・・怪我、まだ良くならないの?」
心配そうに眉をひそめるカヤトに、祷葵は笑いながら言葉を返す。
「安心しろ。ああ見えてなかなか丈夫だからな。怪我も随分良くなっている。もうじき退院だ。」
その言葉に、カヤトは胸をなでおろした。安堵の表情で笑うその顔に、冷徹な青年の面影はもう無い。
それじゃあ、また。と頭を下げてカヤトは病院を後にした。外に出ると同時に、身に沁みるような寒さが襲う。白い息をひとつ吐いて、目の前を交差する人の波に紛れてカヤトは夜の街に足を踏み出した。
軽快なクリスマスソングが道行く人々の耳を楽しませる。色とりどりのイルミネーションで飾りつけられ、街はすっかり平和で能天気な喧騒で満ち溢れていた。

***

クローゼットの前で、片手に白いニット、片手に桃色のセーターを持って瑞煕が真剣な表情を浮かべている。交互に自分の体に合わせては首をひねり、そのままくるりと体を回して後ろにいる朝奈に声をかける。
「・・・どっちが良いかなあ?」
「うーん・・・あたし的には白かな。瑞煕ちゃん、やっぱ白が似合うよ。」
「本当?じゃあ、こっちにする。」
えへへ、と幸せそうな笑顔を浮かべる瑞煕に、朝奈も同様の笑みを返した。腰かけているベッドの隣をぽんぽんと叩き、おいでと呼ぶと瑞煕はためらいなくそれに従う。
さらさらと流れる、透き通るようなその髪にゆっくりと櫛を通す。ふわりと香るシャンプーの匂いが朝奈の鼻をくすぐった。
「瑞煕ちゃん。デート、楽しんでおいでね。報告待ってるから。」
「うん。朝奈さんも。」
「あ、あたしは別に、そんなんじゃ・・・!」
髪を梳く手が止まる。瑞煕が振り返ると、頬を赤らめて目を伏せる朝奈の姿があった。まるで少女のようなその恥じらい方に、瑞煕が思わず「可愛い」と言って笑うと、耳まで赤くした朝奈がもう、と口を尖らせる。そして、すぐにその表情は笑顔へと変わった。

丁寧に結わえられた髪を揺らし、白いニットに身を包み、瑞煕は浮かれた街へと足を踏み入れる。眼前に広がる、豪華に飾りつけられた商店街。明るいイルミネーションが、暗くなった空を照らしている。
商店街の入り口で、瑞煕は辺りを見渡した。溢れかえるような人混みの向こうに、誰かを待っているような一人の少年の姿がある。顔をぱぁっと輝かせ、瑞煕はその少年に駆け寄った。
「鴕久地くん!」
その声に顔を上げ、閨登も満面の笑みを浮かべる。待った?と瑞煕が問うと、閨登は否定の言葉を口にしながら首を横に振った。顔を見合わせ、二人は同時に照れ笑いのような表情になる。
「怪我は、もう良いの?もうどこも痛いところとか無い?」
歩きながら閨登が尋ねると、瑞煕はうん、と笑顔でうなずいて両手でガッツポーズを作って見せた。
「もう、すっかりこの通り。」
「良かった・・・。河拿さんが入院したときは、本当に心臓が止まるかと思ったよ。」
安心したように息を吐く閨登を見て、瑞煕もくすくすと笑い声をあげる。

2.

「こんなに早く良くなったのも、鴕久地くんのお父さんのおかげ。本当に、良いお医者さまだね。」
「・・・そう、かな?」
「うん。鴕久地くんのお父さんには、本当にお世話になりました。・・・いろいろ、と。」
「・・・うん?」
訝しげに閨登が聞き返すと、瑞煕はふふ、と笑い声をあげた。

歩みを進める二人の前に、やがて見上げるように背の高いクリスマスツリーがその姿を現した。商店街の中庭として確保されたそのスペースは、店の灯りもぼんやりとしか届かない。
闇の中で、イルミネーションで飾られたクリスマスツリーだけが圧倒的な存在感を放っている。はじめて見るその光景に、瑞煕の顔が輝いた。
「綺麗・・・。」
見開かれた大きな瞳に、ツリーの光がいっぱいいっぱいに映り込む。その横顔を、閨登は愛おしそうな瞳で見つめた。
この無邪気な瞳に、もっともっと色んなものを見せてあげようと、そう誓いながら。
「・・・ねえ、河拿さん。約束、覚えてる?」
閨登がそう問いかけると、瑞煕は満面の笑みで、ツリーの興奮そのままに勢いよくうなずく。
異形との戦いへ赴く瑞煕を心配した、閨登と交わした約束。絶対に無茶はしないこと。すべてが終わったら、その後―・・・
「・・・あ。」
続きを思い出した瑞煕の顔がみるみる紅潮する。湯気が立ち昇るのではないかと思うほど全身が熱を放ち、心臓が激しく脈打つ。
どうして今まで気付きもしなかったのか。閨登の隣にいることに、今更になって緊張を覚え瑞煕の頭が真っ白になった。
動揺を悟られないようにと意識すればするほど、瑞煕はどんどん挙動不審な動きを積み重ねてゆく。そんな少女の肩を掴んでぐい、と自分の方を向かせ、閨登はその大きな瞳を真正面から見つめた。
「河拿さん。」
「はっ、はい!」
名前を呼ぶと、瑞煕の体がビクン、と大きく跳ねた。真っ赤に熟れた白い肌。見開かれた瞳は潤み、閨登を真っ直ぐに見上げている。自分の顔が熱くなるのを感じながら、閨登は口を開いた。
「・・・河拿さん、好きです。ずっと、そばにいてください。・・・僕と、付き合ってください。」
大切に、しっかりと、紡がれた言葉。瑞煕の胸の中で、それは心地よい熱となる。
こみ上げる幸福感に、瑞煕の瞳から温かい雫が溢れた。小さくうなずくと、それは両の瞳からぱたぱたとこぼれ落ちる。
「・・・はい。よろしく、お願いします。」

クリスマスツリーが、幸せそうな恋人たちを祝福するように光を放つ。
少女の笑顔は、そんなイルミネーションにも負けないくらい輝いていた。

***

「うわああやっぱクリスマスだねえ!こんなのはじめて見たよ。」
ガラスの外に目を向けた朝奈が興奮気味に目を見開く。その視線の先を追って、祷葵もふふ、と笑みを漏らした。
眼下に広がる夜景は、そのひとつひとつが幸せな輝きを放っている。チカチカと色を変えるイルミネーションやクリスマスの飾りが、夜景に華を添えていた。
照明の控えめな店内に、食器の擦れる音が小さく響く。丸いテーブルの中心で小さなキャンドルの火が揺れている。
透明感のある液体が注がれた細長いグラスを手元に置き、キャンドルを挟んで祷葵と朝奈は向かい合って座っていた。
「・・・この街って、こんなに綺麗だったんだね。なんだか、今までのことが全部夢だったような不思議な気分になるよ。」
「ああ、そうだな。・・・でも、夢じゃない。あの戦いだって、ほんの2週間ちょっと前の話だ。」
眼前に広がる夜景を眺めながら、祷葵がぽつりと呟く。しかし、その表情は穏やかだった。ふふん、と得意げに朝奈が笑う。
「どうよ、あたしがいて助かったでしょ?」
「ああ、本当に助かった。朝奈がいなければ、今の私は無い。耕焔との決着もつけられなかった。本当に感謝している。・・・ありがとう、朝奈。」
「・・・っなによ。ずいぶん、素直じゃん・・・。」
柔和な笑みで真っ直ぐな言葉を向けられ、朝奈は頬を赤らめて目を逸らした。ぼんやりと揺れるキャンドルの灯りが、そんな彼女の顔に淡い影を落としている。
こほん、と小さな咳払いが聞こえ、朝奈は視線を上げる。オレンジ色に揺れる灯りのせいか、祷葵の顔も少し紅潮して見えた。
「・・・朝奈。受け取って欲しいものがある。」
そう言って祷葵は何かを取り出す。きょとん、として朝奈は祷葵の手元に注目した。
コトリと音を立ててテーブルに置かれる、小さな藍色の箱。心臓がどくんと跳ねあがり朝奈は息を飲んだ。
祷葵の指が、ゆっくりと箱のふたを開ける。白いクッションで守られた銀色のリングが光を受けて輝いた。
目を見開き、朝奈は震える声をあげる。
「・・・これって・・・。」
真っ直ぐ見つめてくる薄茶色の瞳に、祷葵は照れくさそうな笑みを返した。
何年間もずっと、渡せずにいた指輪。今までずっと当たり前のように一緒にいた女性に、これからもずっと当たり前に一緒にいてもらうための、誓約の指輪。
いつからこんな気持ちを抱いていたのかなんて、覚えていない。覚えていないほど、ずっとずっと遥か昔からだったのかもしれない。
「・・・朝奈。私と、結婚してくれないか。」
その一言が紡がれると、大きく見開かれた朝奈の瞳から大粒の涙があふれ出した。
ぽろぽろと透明な雫をこぼし、朝奈は震える唇を開く。
「・・・夢・・・、なのかなあ?」
「夢じゃないさ。」
笑いながら祷葵が否定すると、朝奈はようやく満面の笑みを浮かべた。
吸い込まれそうなほど暗い夜空から、白いかけらが舞い落ちる。星空のような街に、幸せそうな声が溢れる。
華やかで、騒がしくて、穏やかな夜がゆっくりと更けていった。

***

「・・・うしっ!」
一枚の写真立てを棚の上に並べ、黒髪の青年は満足そうにうなずく。温かい日ざしに照らされた写真の中で、白衣を着た男女が太陽のような笑顔を向けていた。
磨き上げられた銀色のプレートと、真っ白な建物の前で、思い思いのポーズをとっている。
その写真立ての横で、白い小さなドラゴンが愛くるしい表情を浮かべていた。

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第20話 白のフリーク

1.

赤く滲む白衣を押さえながら、耕焔が体勢を立て直す。視界をぐるりと回し、祷葵に馬乗りになっている套矢を確認して、満足そうな笑みを浮かべた。
視界の隅に耕焔の姿を見とめ、祷葵は静かに涙を流す套矢の背中をそっと撫でた。息を飲んで体を震わせる套矢の耳元で「大丈夫だ」とささやく。
そんな二人のやり取りなどは露知らず、耕焔は両手を広げて仰々しく笑った。
「実に良いですねえ。その無様な格好、私は好きですよ。愛する弟に裏切られた気分はどうですか?私が聞いていてあげますから、思う存分絶望の声をあげてください。」
勝ち誇ったような顔で耕焔が煽る。しかし、今となってはその言葉も何一つ意味をもたなかった。
套矢の背中を片腕で支えながら、祷葵が上体を起こす。期待に満ちた表情で見下す耕焔の顔を、真正面から見つめ返す祷葵の口元には笑みが浮かんでいた。耕焔が眉をひそめる。
ゆっくりと祷葵が立ち上がる。松葉杖の代わりとなって、その体を支えるのは套矢の腕だった。四つの黒い瞳が耕焔を睨む。状況を察した朝奈が、小さく笑みを浮かべた。
「套矢・・・お前、私を裏切るのか?今まで育ててやった恩を忘れたのか?」
憎々しげに口を開く耕焔の眉が怒りに震えている。答える代わりに、套矢は祷葵の白衣をぎゅっと掴んだ。
「耕焔。もう諦めたらどうだ。套矢を失ったら、もうお前に武器など残されていないだろう。」
額に汗を浮かべながら、耕焔が祷葵を睨む。その表情からは焦りや屈辱がうかがえる。
朝奈や暁良もじっと口をつぐみ、耕焔の反応を待った。誰もが降服を願っていた。そして、誰もが勝利を確信していた。

耕焔の瞳がある一点をとらえる。その肩が小刻みに震えだし、やがてそれは高笑いへと変わる。
空を仰ぎ、狂乱したかのような笑い声をあげ続ける耕焔を、四人は呆然と見つめていた。
「残念だったなあ。運はまだ、私に味方しているようですよ?」
耕焔の顔が、不快な形に歪む。祷葵の背中を冷たいものが撫で上げた。

かすかに聞こえる、鳥とも獣ともつかない鳴き声。それは吹き荒れる風とともに段々と近付いてくる。
後ろを振り返り、朝奈が小さな悲鳴をあげた。祷葵の目にもはっきりと映っていた。大きな翼をはためかせ、真っ直ぐにこちらに向かってくる、黒き異形の姿が。
赤い二つの瞳が祷葵をとらえる。鋭い爪が、黒い体がその狙いを定めた。渾身の力を込めて、祷葵が套矢を突き飛ばす。
前のめりになってふらつく套矢の背後を突風が駆け抜ける。
「兄さ・・・!」
振りかえり、套矢が声をあげたその先に、祷葵の姿はもう無かった。

長い尻尾をなびかせ、ゆっくりと翼をたたみながら、異形が次の標的を探す。その黒い体の向こうに、アスファルトの上に横たわる白衣が見えた。套矢と朝奈が同時に声をあげる。
「兄さん!」
「祷葵!」
赤い瞳がギラリと光った。射抜かれるような視線に、套矢は思わず駆けだそうとした足を止める。
鋭い爪が振りあげられた。次の標的が決まったようだ。焦りと恐怖で套矢の全身から汗が噴き出す。
「朝奈、危ない!」
あらんかぎりの声を張り上げて套矢が叫ぶ。しかし、もう間に合わなかった。
異形の爪が朝奈を横殴りにする。短い悲鳴をあげて、朝奈の体が地を転がった。
「姉ちゃん!・・・くそっ!」
暁良が手にしていた拳銃を構え、黒い体に続けて弾を撃ち込む。乾いた音が連続で鳴り響いた。
異形が顔をしかめ、痛みに耐えるように身をよじる。しかし、それはすぐに怒りへと変わった。

まるで虫を払うかのように繰り出された異形の手が暁良をとらえる。悲鳴をあげるより早く、暁良の体は固い地面に叩きつけられた。
「っ・・・暁良!」
泣きだしそうな声で套矢が叫んだ。小さな呻き声が套矢を取り囲む。
地面に横たわる三人の男女。その中心で勝利の咆哮をあげる黒き異形。套矢はただ呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。
「・・・兄さん・・・。朝奈・・・。暁良・・・。」
かすれる声で名前を呼ぶ。そのたびに、胸の中に岩が入り込んだように息苦しくなる。
背後で耕焔の笑い声が聞こえた。放心している套矢の肩に耕焔の手が置かれる。体を揺さぶられ、套矢の髪がさらさらと揺れた。
「本当に、套矢はすごいものを作ったな。こんな一瞬で形勢逆転できるとは。古斑研究所所長の名に恥じない仕事っぷりだ。」
満足そうに笑う耕焔の声を、套矢はどこか遠くで聞いていた。黒き異形はその翼をたたみ、套矢の眼前で大人しく待機している。まるで、忠誠を誓っているかのように。
「・・・違う・・・。俺は、こんなの望んでなんかいない・・・。」
頭を押さえ、套矢は激しくかぶりを振った。この異形を作り上げるときも、河拿研究所や市街地に送り出すときも、套矢はいつも厚いガラスの向こうで、自分が行っている行為をただ見ているような感覚に陥っていた。この異形が忠誠を誓っているのは、自分だけれど、自分では無い。
しかし、そうやって責任逃れをしたところで、套矢の胸の内は一向に晴れなかった。この異形を作り出したのは、間違いなく自分なのだ。そして、幼馴染や、実の兄をもこの手にかけたのだ。
「うわあああああっ!!」
両目から熱い涙がこぼれ落ちる。喉からせり上げる叫びを抑えきれず、半狂乱になりながら套矢は地面に転がった拳銃を拾い上げた。
異形が動揺の色を見せる。無抵抗なその体に、套矢は一心不乱に弾を撃ち込んだ。悲痛な叫び声をあげながら身悶える異形から、鋭い爪が横凪ぎに繰り出される。容赦ないその攻撃に套矢の体は簡単に数メートル吹き飛ばされ、駐車場を覆う塀に叩きつけられた。息が止まるようなその衝撃に声をあげることすら出来ず、套矢の体はそのままずるりと塀をつたって力なく地に落ちる。
激しい痛みが全身を襲う。立ち上がることすら出来ずに、套矢はただ硬いアスファルトの感触を感じていた。くくく、と押し殺したような耕焔の笑い声が聞こえる。
「バカだなぁ套矢は。大人しくしていればそんな目に遭わずに済んだのに。」
ゆっくりと目を開けた套矢の視線の先に、小さな白い塊が見えた。ぼんやりとした焦点が合うと同時に、それが朝奈の持っていたゴム人形のドラゴンだと分かる。痛みに顔をしかめながら、套矢はゆっくりと人形に手を伸ばした。

子どものお小遣いで買える、小さなヒーロー。大きな目玉と愛くるしい表情で、一見間の抜けた印象を与えるが、実はとてもカッコイイ正義の味方なのだということを套矢は良く知っている。
アスファルトを蹴る革靴の音が近付く。低くうなる異形の声が聞こえる。
悲鳴をあげる腕に鞭をうつ。震える指先がゴム人形に触れる。もう一息だった。

(お願いだ―・・・兄さんを、みんなを助けて・・・!)

ころん、と套矢の手の中にやわらかい感触が転がり込む。藁をもつかむ思いで、套矢はその人形を握りしめた。

2.

「キュウウウウウゥゥッ!!」

突風が吹き荒れる。套矢の背後にそびえ立つ塀の奥から、白いドラゴンが舞い上がった。
甲高い咆哮をあげ、翼を激しくはためかせるその巨体は、太陽の光を受けて神秘的な輝きを放っている。
その姿はまさに、子どもの頃熱をあげていた正義のヒーローそのものだった。
「フリーク・・・!」
そのヒーローの名を口にすると、套矢の中に不思議な安心感と高揚感が生まれた。テレビの中で、ヒーローはいつも無敵だった。カッコ良く登場して、悪いやつらをみんなやっつけてしまうのだ。
まるで套矢の声に返事をするかのように一声鳴くと、白いドラゴンは黒の異形に向けて一直線に風を切った。そして、突然のことに反応が遅れた黒い異形の首にその鋭い牙を突き立てる。悲痛な叫び声を上げて、異形が激しく暴れた。
白と黒。二匹の異形が牙を交えるその喧騒に、祷葵と朝奈も意識を取り戻したようだ。小さく呻きながら上体を起こし、激しくぶつかり合う二つの影を呆然と眺めている。
「・・・フリーク・・・?」
繰り広げられる光景に目を見開きながら、祷葵の口からも自然にその名がこぼれる。それは朝奈も同様だった。自分たちで作り上げた白き異形の姿と、正義のヒーローの姿が重なり合う。
二匹の異形は、まるでダンスを踊るように絡み合いながら上空へと舞いあがった。離れてはぶつかり合い、また距離を取っては牙を向け、お互いの体がどっちのものともつかぬ体液で汚れていく。
アスファルトに座りこんだまま、三人は上空から聞こえてくる異形たちの声にただ耳を傾けていた。耕焔もまた、呆然と空を見上げている。河拿と古斑、両者の命運はすべて二匹の異形に委ねられた。

「・・・がん、ばれ・・・!」

朝奈の口から、小さな声援がこぼれた。ぐっ、と地面についた手に力を込め、白いヒーローに向かって朝奈は再び、今度はあらんかぎりの声を張り上げて声援を飛ばす。
「がんばれフリーク!負けないでーっ!!」
突然あがった大声に、祷葵と套矢は目を見開いて朝奈を見やる。当の本人は、真剣そのものだった。
そっと手を開き、套矢は小さなゴム人形に視線を落とす。大きな瞳で愛嬌をふりまく正義のヒーロー。その人形を再びぎゅっ、と強く握りしめ、套矢も朝奈に続いて上空を仰ぎ声を張り上げる。
「フリーク!がんばれーーっ!!」
真剣な表情で声援を送り続ける朝奈と套矢。その二人を見つめる祷葵の顔に、自然と笑みが浮かんだ。
懐かしい光景だった。幼い頃、いつもテレビに向かって三人で必死に声援を送っていた。
ヒーローが勝った瞬間に跳びあがって喜んでいた二人の笑顔が、祷葵はたまらなく好きだった。
穏やかな表情で目を細め、祷葵も顔をあげて上空を見やる。
「負けるなフリーク!がんばれ!」

口ぐちに声援を送り始めた三人は、さぞかし異様に映ったのだろう。耕焔が狼狽した様子でじり、と後ずさる。大の大人が揃いもそろって、まるで幼い子どものような表情を浮かべていた。
「な、なんだ・・・お前たち・・・。」
動揺を隠せない様子の耕焔の眼前に、黒い影が落ちる。やがて、上空から隕石のように勢いよく落下した黒き異形が、アスファルトをめちゃくちゃに割った。苦しげにもがく異形の上に、薄汚れた白いドラゴンが舞い降りる。
鋭い牙がためらいなく異形の胸に突き刺さり、耳をつんざくような断末魔があがった。
ぴくりとも動かなくなった異形から、ようやく牙を抜きドラゴンは上空に向かって勝鬨のような雄々しい咆哮をあげた。朝奈と套矢が16年ぶりの、祷葵が一番見たかった笑顔を浮かべて歓声をあげる。
何も変わらないその光景に、祷葵の顔にも笑みが浮かぶ。そんな祷葵たちとは対照的に、へなへなと力なくその場に崩れ落ちた耕焔は、完全に戦意を喪失していた。
痛む体を押さえて、ふらつきながら祷葵が立ち上がる。力の入らない片足を引きずり、ゆっくりと耕焔のもとへと歩みを進める。すっかり覇気のなくなった瞳で、耕焔が祷葵を一瞥した。
「・・・耕焔。これで、もう決着がついただろう。病気については、良い医者を紹介する。療養している間の従業員の働き口に関しては、うちで引き受けても構わない。
だから・・・もう、終わりにしよう。・・・套矢を、返してくれないか。」
一同が固唾を飲んで見守る中、耕焔はふふ、と嘲るような笑い声をあげた。
「・・・本当に、君はお人好しだな。そんなところまで、父親そっくりだ。まったく腹が立つよ、本当に・・・。」
耕焔の言葉が震える。手のひらで目を覆い、そのまま静かに肩を震わせた。それを承諾と受け取り、祷葵も目を閉じて安堵にひたる。気が抜けたのだろう、杖がある時と何ら変わらない調子で足を踏み出し、祷葵の体がぐらりと大きく揺れた。おっと、などと間の抜けた声をあげているうちに体はどんどんバランスを崩していく。
「ちょっ・・・兄さん!?」
「祷葵!」
慌てて駆け寄った套矢と朝奈に両脇を抱えられ、何とか踏みとどまる。キュウ、キュウ、と心配そうな声をあげて白いドラゴンも祷葵にすり寄る。傷だらけで薄汚れたその体を労わるように、套矢と朝奈がその額を撫でた。
「お疲れさま、フリーク。よくがんばったね。」
「カッコ良かったぞ!やっぱりフリークは正義のヒーローだな。」
口ぐちに褒め称えられ、ぐりぐりと撫でまわされ、白いドラゴンは気持ち良さそうに目を細めた。その巨体から力が抜け、ズンと音を立てながら地面に体を伏せる。徐々に首を垂れるその角度に合わせて、三人もゆっくりとしゃがみこんだ。
「・・・フリーク・・・。」
目に涙をいっぱい溜めて朝奈が呟く。分かっていた、覚悟していた。この戦いで白き異形が命を落とす可能性も、仮に生き延びたとてその体は長くはもたないことも。
ゆっくりと手を伸ばし、祷葵がその鼻先を撫でる。薄く開かれた異形の瞳から、透明な雫がこぼれた。
「ありがとう、フリーク。お前は、私たちの永遠のヒーローだ。」
くるるる、と嬉しそうな声をあげて、白き異形がゆっくりと瞳を閉じる。首が、翼が、長い尾が地面に預けられ、その命が尽きた瞬間を伝えていた。

コンクリートに囲まれた空間に、待ち望んでいた静寂が訪れる。
オレンジ色の太陽が、晴れ渡った空を感傷的に染め上げていた。

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第19話 銃声

1.

不快な形にゆがむ耕焔の口元を、祷葵はただ静かに見つめていた。
彼の傍らには、未だ片腕を繋がれたままの弟が力なく立ち尽くしている。耕焔の指が、套矢の白衣に深いシワを刻むたび、祷葵の胸の中にどす黒いものがこみ上げた。
ふん、と鼻を鳴らし耕焔が嘲るような口調で祷葵の問いに答える。
「何をした・・・もなにも、子どもをしつけるのは親の仕事です。実のお兄さんの前でこんな事言うのも心苦しいんですが、套矢はなかなか私の言うことを聞いてくれなくて・・・。しつけるのに本当に苦労したものです。」
「・・・それだけじゃないだろう。」
やれやれ、と肩をすくめて話を切ろうとする耕焔を、祷葵が鋭い口調で制する。ふっ、と逸れた祷葵の視線を辿り、耕焔はああ、と合点のいったような声をあげる。
手のひらに収まるほどの小型の機械。丸く塗りつぶされた中央部分は、何か音を出すためのスピーカーのように見えた。
「この機械は、套矢をしつけるためのちょっとしたお手伝いさんですよ。元の人格を押さえこみ、私が与えた新しい人格を定着させるためのね。・・・本当に祷葵くんは洞察力が鋭い。こんなに早く気付かれるなんて思ってもみなかったよ。」
「・・・じゃあ、やっぱり・・・!」
眉をひそめて朝奈が声をあげる。祷葵もまた、今まで見せた事のないような目つきで耕焔を睨んでいる。豪快に笑い声をあげる耕焔の顔を、套矢がゆっくりと見上げた。
「最初から、新しい人格を植え付けようなんて思っていたわけじゃない。父さん、と泣けば私がそばに行ったし、兄さん、と泣けば新しい養子を連れてきて兄を作ってやった。 それでも駄目だった。套矢は私も新しい兄もすべて拒絶して毎日泣いていた。・・・私がどれだけ困り果てたかわかるでしょう? うちに来たからには、いつまでも河拿の子でいてもらっては困るんですよ。だから、古斑套矢としての人格を作って彼に植え付けた。仕方なかったんですよ。」
悪びれる様子もなく、耕焔の口調はむしろ同情して欲しいと言わんばかりだった。こみあげる怒りを抑えきれず、祷葵は語気を荒げる。
「・・・お前は、自分の思い通りに動く人形が欲しくて套矢を引き取ったのか?套矢の病気を治す代わりに養子に欲しいとさんざん駄々をこねて、私たち家族から無理やり引き離して、その後一度の面会も許さなかったのは套矢に新しい人格を作ったのを知られたくなかったからか?・・・お前の目的は一体何なんだ。」
枯葉を舞い上げて吹いた風が、熱く火照った祷葵の体を冷ます。指先が真っ白に痺れるほど握りしめていた拳をほどき、自身を落ち着かせるように祷葵は小さく息を吐いた。しかし、耕焔に対する怒りは衰えることなく、胸の中でどろどろと渦巻いている。
耕焔の細い瞳が冷たく光る。くくく、と声を押し殺した笑い声があがった。
「最初は、君たちのご両親を少し懲らしめたかっただけなんです。同じ研究内容を有する私と河拿さんは、いわばライバルのようなものでした。・・・でも、どうしてだか、私は全然彼に敵わなくて。ちょっと困らせてやろうと思って、彼の大事なものをひとつ、奪ってやろうと思ったんです。自分が可愛がって可愛がって育てた息子が、敵対して牙をむく姿を見たらどんな反応するかと思って。」
さもおかしそうに笑う耕焔の姿に、朝奈は怒りを通り越して恐怖すら感じていた。そっと視線をあげて隣を見やると、祷葵も凍りついた表情で耕焔を見すえている。

そんな、個人的な私怨のためだけに套矢を壊したのか?我に返った祷葵の拳が再び強く握りしめられた。そんな祷葵の反応を面白がるかのように、耕焔は言葉を続ける。
「套矢の人格の定着には相当な時間がかかりました。最初は本人もかなり抵抗してましたから。套矢を両親に合わせるには、人格が完全に定着してからの方が都合が良かったんです。・・・それなのに、套矢を引き取ってから7年もの間、ご両親は毎日のように様子を尋ねてきた。ご両親や君の気配を感じると、套矢の元の人格が暴れるから本当に厄介なんですよ。・・・研究者の性ってやつですかね、いつしか、套矢に新しい人格を植え付ける実験を成功させるのが私の目的になっていて。それで、邪魔になったご両親には悪いけど退場して頂きました。君には、本当に悪いことをしたと思っているよ。」
申し訳ない、と思っている割には頭のひとつも下げない耕焔に、祷葵の怒りはつのるばかりだった。無論、頭を下げられたところで何ひとつ許すつもりはない。
耕焔の話に憤りを感じつつも、朝奈は祷葵の横顔を心配そうに見つめていた。今はまだ冷静を保っているものの、祷葵もそろそろ我慢の限界だろう。何かあった際にいつでも動けるよう、朝奈は白衣の下に隠した、冷たい鉄の感触を確かめた。
怒りのあまり、言葉も出ないのだろう。祷葵はただ黙って、瞬きひとつしないまま耕焔を睨んでいる。そんな祷葵の反応を引き出すように、耕焔は更に話の続きを語った。
「・・・それにしても、祷葵くんが河拿研究所を再建したと聞いたときはびっくりしましたよ。しかも、ご両親にも引けを取らない、むしろそれ以上の研究を世に送り出している。こんなに若いのに、って感心しました。・・・だから、どうしても欲しくなっちゃったんです。私の悪いくせですね。」
「・・・套矢からは、お前が不治の病にかかって、それでクローンを作りたがっていると聞いたが。」
低く、唸るような声で祷葵が言葉を返す。套矢も、耕焔の次の言葉を待っているようだ。じっと押し黙って父親の顔を見つめている。ふふ、と自嘲気味に笑い、耕焔は肩をすくめた。
「それは本当ですよ。私は不治の病に侵されている。でも安心してください。君の研究は私のクローンが受け継ぎますから。・・・もちろん、君自身が古斑研究所で働いてくれるなら大歓迎ですよ。どうですか、副所長さんも一緒に。」
「ふざけるな。」
「ふざけないで。」
声を揃えて祷葵と朝奈が拒絶する。仲がよろしいんですね、と言って耕焔はまた笑ってみせた。
不気味な静寂が場を支配する。一触即発の緊張感。その空気を破ったのは、研究所に近付く車のエンジン音だった。

耕焔がにやり、と含みのある笑みを浮かべた。祷葵と朝奈も、耕焔から注意を逸らさないまま、駐車場に姿を現した車に視線を送る。車から降り立った二人の男は、対峙したままの四人を一瞥すると、後部座席の扉を開ける。かすかに血の匂いがして、祷葵と朝奈は顔をしかめた。
男たちが、後部座席から何かを担ぎ出す。それは二名の男女の姿だった。まとった白衣は赤黒く染まり、力なく男たちに体を預けているその姿を見とめて、祷葵は目を見開いた。同様に驚愕の表情を浮かべている朝奈の口から、うそ・・・とかすれた声が漏れる。信じられない、信じたくない光景だった。
「・・・瑞煕・・・。遷己・・・。」
震える声で、祷葵がその名を呼ぶ。男たちが、担いでいた人物をそれぞれ地面におろす。どさっ、と音を立てて二名の男女はアスファルトに身を横たえた。声ひとつ上げず、指のひとつも動かさずに。
変わり果てた二人の姿を、祷葵は呆然と見つめていた。怒りに身をまかせて怒鳴りちらせたらどんなに楽だろう。悲しみに身を任せて泣き叫べたらどんなに救われただろう。祷葵はただ、真っ白に霞む頭で、胸の中が空っぽに抜け落ちてゆくのを感じるしかなかった。松葉杖を握る腕にぐっと力を込めて体重を預ける。そうでもしないとこのまま崩れ落ちてしまいそうだ。
震える息を吐きながら凍りついている祷葵を見やり、耕焔は満足そうに口元を歪める。掴んでいた套矢の腕を離し、両手を広げて祷葵に一歩、二歩と近付く。

2.

「安心してください。殺してはいませんよ。君がどうしても我々に協力できないというなら、あの子たちを徹底的にバラして君の研究を探らないといけないからね。今死んでもらっては困る。」
見開かれた黒い瞳が、ゆっくりと耕焔に向けられる。わずかながら、今の耕焔の話に反応を示しているらしい。白くにごる祷葵の頭にしっかりと刻みつけるよう、耕焔はもう一度交渉に踏み出た。
「どうですか。君が私に協力するというなら、彼らの身の安全は保証しましょう。是非古斑研究所に来てください。実の弟とも一緒にいられるし、彼らは助かるし良いことずくめじゃないか。
・・・逆に、どうしても強力できないなら、君の代わりは彼らが務めることになる。その身をもって、我々に有益な研究材料を提供してくれることでしょう。そして、その際には・・・。」
耕焔が白衣の懐を探る。その手には黒光りする拳銃が握られていた。朝奈と套矢が小さく息を飲んで身じろぐ。突きつけられた丸い空洞を、祷葵は顔色ひとつ変えずに見つめていた。
「悪いけど、君には死んでもらいますよ。」
耕焔がにやりと笑う。とっさに朝奈が白衣の下に隠した拳銃に手をかけた。
祷葵に拳銃を突きつける耕焔に、その銃口を向ける。耕焔が不快な笑みをたたえたまま朝奈に視線を向けた。次の瞬間、朝奈の背後で二つの靴音が同時に鳴った。
すかさず振り返り、朝奈が銃を構える。黒光りする鉄を各々の手に握りしめ、二人の男は真っ直ぐ、朝奈に向かって駆けだした。狙いを定めて、朝奈が銃の引き金を引く。乾いた音と共に、一人の男の手から黒い鉄が弾き落とされた。しかし、続けて聞こえてきた破裂音と同時に、朝奈の手の甲に一本の赤い線が刻まれた。鋭い熱と痛みに開かれた手のひらから、黒い拳銃が滑り落ちた。
それを拾い上げようとする朝奈の首に、男の腕が回される。一瞬見えた男の指先には真新しい傷がついていた。
朝奈の視界の隅を、男が蹴り飛ばしたのだろう黒い拳銃が滑る。くるくると回転しながら、その黒い鉄は朝奈の視界から消えた。悔しそうに歯を食いしばる朝奈の眼前に、冷たい銃口が向けられる。
「朝奈!」
身を乗り出そうとした祷葵を、重たい感触が制する。こめかみにあてがわれた鉄がカチャリと音を立て、祷葵の頭の中でやけに大きく響く。
「おっと、動かないでくださいね。私も出来ることなら君を失いたくはないんですよ。」
ぐっ、と息をつまらせて祷葵が横目で耕焔を睨む。眼鏡を媒介せずに映る耕焔の表情はぼやけて読み取れない。祷葵には好都合だった。こんな卑怯者の顔などハッキリ見たくもない。
視線を朝奈に戻す。男二人がかりで完全に身動きを封じられていた。万事休すか―・・・。祷葵がゆっくりと瞳を閉じた、その時、

タァン―・・・

乾いた銃声が一発鳴り響き、銃を構えていた男が手を押さえて後ずさった。突然のことに気を取られ、腕の力を弱めた男の腹に、朝奈はすかさず肘をねじ込む。くぐもった呻き声を上げて、男がずるりと地に伏した。先ほど男に蹴り捨てられた拳銃を探して朝奈は周囲に視線を巡らせる。
しかし、あるべきところにその探し物はなく、代わりに一人の青年が拳銃を構えて立っていた。赤い髪が上下する肩に合わせて揺れていた。息を切らせながら、その青年は心配そうな顔で朝奈に駆け寄る。

「姉ちゃん!大丈夫か!?」
「暁良!?あんた、どうしてここに・・・。何かあったら、街の人を避難させるように言ったでしょ!」
「それなら大丈夫!協力してくれるやつがいたんだ。だから、そいつに後は任せてきた。」
鋭い口調で咎める朝奈に、暁良は得意げな表情を返す。おそらく、街の人々を避難させ、そのまま自分も逃げおおせて欲しいという、弟の身を案じてのことだったのだろう。しかし、そんな姉の配慮も暁良には無意味だったらしい。
暁良の足元で、小さな舌打ちが聞こえる。地に落ちた銃を拾おうとする手を思い切り踏みつけ、暁良はその男に銃口を向けた。ぎりぎりと力を込めながら暁良の靴底が半円を描くたび、男の顔が痛みに歪んだ。
「・・・くそっ、貴様らいい加減に・・・!」
悪態をつきながら、耕焔が祷葵に突きつけていた銃を下ろす。そして、その銃口が暁良をとらえようとする一瞬の隙を、もう一人の銃の持ち主は見逃さなかった。
明らかに、拳銃のものとは違うひと際大きな銃声が響く。同時に、耕焔が横腹を押さえてうずくまった。
そこにいる全員が、一様に銃声の聞こえてきた方を見やった。うつ伏せに倒れている体から、わずかに持ちあげられた黒い左腕。思わず祷葵は感嘆の声をあげる。
「・・・遷己・・・!」
口元にわずかな笑みを浮かべながら遷己はゆっくりと腕をおろした。そんな彼を憎々しげに睨みつける耕焔の表情からは、先ほどまでの穏やかな雰囲気は感じられない。
耕焔の手から滑り下りた拳銃を拾い上げたのは祷葵だった。先ほどまでは、自分を束縛していたその銃口を耕焔の頭へと向ける。形勢逆転、耕焔の表情から焦りの色がうかがえる。
「・・・套矢!何をしているんだ!早くこいつらを取り押さえろ!」
耕焔の怒号に、套矢の体がビクン、と跳ねた。見開かれた瞳に、横腹を押さえてうずくまる父親と、冷たい瞳で父親に銃を突きつける兄の姿が映る。
取り押さえる・・・誰を?誰を・・・助ける?
ガンガンと痛む頭とぐらつく視界。套矢の中で、誰かが必死に叫び声をあげていた。
震える手で、ポケットから銀色に光る刃を取り出す。ぎゅっと握りしめ、套矢はふらつく足でアスファルトを踏んだ。
一歩、一歩、歩みを進めるたびに頭がきしむ。胸の中がぐちゃぐちゃに掻き乱されて息が震えた。
視界に映る耕焔の顔がにやり、と歪んだ。瞬間、套矢の中で何かが弾ける。
「うああああっ!!」
苦しげな叫び声をあげ、套矢が駆けだす。朝奈が、暁良が、祷葵が制する暇などなかった。
低く屈めた体は、その速度を緩めることなく祷葵にぶつかった。低く呻いて仰向けに倒れた祷葵の足元を拳銃がカラカラと滑る。上体を起こそうとした祷葵の上に馬乗りになり、套矢は握りしめたナイフを思い切り振り下ろした。

小さく風を切る音が祷葵の耳をくすぐる。ガツン、と大きな音を立てて、ナイフはアスファルトの小石を弾いた。木製の柄を握る套矢の手は、小刻みに震えている。
「・・・け、て・・・。」
套矢の口から漏れる、小さくかすれた声。それと同時に、祷葵の頬に温かい雫がぽたぽたと落ちては流れる。思わず祷葵は息を飲んだ。
16年前に見た泣き顔が、そこにはあった。両の瞳から大粒の涙をこぼし、潤んだ黒い瞳を細めて8歳の少年が泣きじゃくっている。
震える唇を開き、懇願するように絞りだされた声は、祷葵にしか聞こえないほど、小さくて弱々しいものだった。

「たすけて・・・兄さん。」

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第18話 4cmの記憶

1.

小高い丘から街を見下ろすその建物に、磨き上げられた赤い車が滑り込む。
門扉をくぐり抜け、塀に囲まれた駐車場に入ったところで車は動きを止めた。そびえ立つ白いコンクリート造の壁。一見、構造は河拿研究所とよく似ていたが、建物がまとう雰囲気が、ただよう緊張感が、ここが敵地なのだということを祷葵と朝奈に告げていた。
車から降り、二人はゆっくりと、慎重に歩みを進める。駐車場の先―・・・大きな口を開けた玄関の前に、一人の男の姿が見えた。
肩上で切りそろえられた黒い髪が、風に吹かれて揺れている。白衣をまとい、二人に背を向けて立っているその男をしっかりと見据え、祷葵は口を開いた。
「・・・套矢。」
白衣の男がゆっくりと振り返る。漆黒の瞳が祷葵をとらえる。
こみ上げてくるものを抑えるように、祷葵は息を飲み込んだ。大分顔立ちは変わっているものの、確かに幼い少年のころの面影が残っている。
祷葵の中で、凍りついていた時間が動き出す。この瞬間を、16年もの間ずっと待ち焦がれていたのだ。
しかし、当の本人は感動の再会を分かち合うつもりなど無いらしい。眉ひとつ動かさないまま、吐き出された言葉は機械のように、感情のないものだった。
「・・・待ってたよ。河拿研究所の所長さん。」

凍りつくような北風が両者の間に吹き荒れる。思わず体を強張らせる祷葵と朝奈を、套矢はすべての光を吸収するかのような、完全なる黒で見つめていた。
「ここに来る途中で見たと思う。あいつらは俺の研究成果。・・・だけど、まだまだ不完全なんだ。」
套矢の言う『あいつら』とは、街に蔓延る黒き異形のことだろう。肩をすくめながら首を振る套矢の口調は淡々としている。
「だから・・・完成させるには、あんたが必要なんだ。俺に協力してくれる?・・・兄さん。」
コツ、と革靴が音をたてる。表情ひとつ変えないまま、套矢が一歩、祷葵との距離を縮める。
すかさず体を屈めて、白衣のポケットに手を伸ばそうとする朝奈を、祷葵が片腕で制した。
「・・・クローン技術を完成させて、あの異形をどうするつもりだ?街の破壊がお前たちの目的というわけでもないだろう。」
「うん、そうだね。俺も、あんなのにはもう用は無い。だから今日、全部逃がしたんだ。・・・俺が、俺たちが本当に造りたいのは、父さんのクローンだから。」
祷葵の眉がぴくりと動く。相変わらず、套矢は無表情で言葉を続けている。顔も、声も、後から貼り付けられた偽物のようだ。
「・・・古斑・・・耕焔のことか。なぜ、あんなやつのクローンを・・・。」
絞り出すような声で祷葵が問う。凍りついていた套矢の表情に、わずかな変化が見えた。
抑揚のない、その口調にもかすかな怒りの色が感じられる。光を映さないその瞳で、套矢は祷葵を睨みつけた。
「・・・父さんは、重い病気にかかった俺を助けてくれた。ここまで育ててくれた。・・・そんな父さんが、今度は不治の病にかかったんだ。 ・・・父さんは、死ぬのを怖がってる。自分のクローンを造って命を繋ぎ、またそのクローンを造って永遠に生き続ける。それが父さんの望みであり、それを叶えるのが俺たちの目的だ。」
套矢が更に一歩、足を踏み出す。いつでも飛び出せるよう、朝奈は細心の注意を払いながら套矢の動向に目を向けていた。
祷葵は動かない。眼鏡の奥の瞳で、套矢をじっと見つめたまま微動だにしない。套矢が、かすかに眉をひそめる。ぽつり、と息と共に吐き出された祷葵の声は、ひどく悲しげなものだった。
「・・・套矢。私を・・・私たちを、恨んでいるか。」
ぴたり、と套矢が歩みを止める。まっすぐに祷葵を見つめ返すその瞳には、明らかな動揺の色が見えた。套矢の唇が震える。震える唇から、震える声が紡ぎだされる。

「・・・恨んでなんか・・・!・・・うっ・・・!」
突然頭を押さえ、套矢が苦しみ出した。息も絶え絶えに呻き声をあげ、ふらふらと後ずさる。目を丸した祷葵が、慌ててその名を呼んだ。
「套矢!」
「っ・・・寄るな!」
鋭い拒絶の声があがり、祷葵は思わず駆け寄ろうとした足を止める。乱れた呼吸を整えながら、套矢は前髪の隙間から祷葵を睨み上げた。
「・・・俺は、あんたを恨んでる。・・・兄さんだけじゃない、父さんも、母さんのことも。みんな、病気になって、邪魔になった俺を捨てたんだ。古斑研究所が、俺を引き取ってくれなかったら、俺は今頃あんたたちに見殺しにされて死んでた。古斑耕焔は、俺の命の恩人だ。」
「違う!套矢は大きな勘違いをしてる!」
声をあげたのは朝奈だった。套矢が鋭い視線を朝奈に向ける。薄茶色の瞳を潤ませながら、朝奈が言葉を続けた。
「套矢みたいな頭の良い子が、何で今まで気付かなかったの?祷葵も、おじさんやおばさんも、套矢のことを簡単に捨てるような人じゃないって、あんたが一番知ってるはずでしょ!?」
「朝奈。」
なだめるように祷葵が朝奈の肩に手を置く。喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込んで、朝奈が目を伏せた。套矢の眉が訝しげにひそめられる。
「・・・誰、だ。何で、俺のこと知って・・・?」
「えっ・・・?」
祷葵と朝奈が同時に声をあげた。突き刺さるような二つの視線にとらえられ、套矢は再び頭を押さえる。
「朝奈のこと、覚えていないのか?」
驚きを隠せない様子で、祷葵が尋ねる。頭を押さえたまま、套矢は力なく首を振った。
「知らない・・・。父さんから、何も聞いてな・・・っ!」
套矢の頭を、再び激しい痛みが襲う。苦しげな呻き声と共に、套矢の口から先ほどとは反対の言葉がこぼれる。
「・・・ちがう、覚えてる。兄さんと三人で、よく遊んで・・・う、ぐっ・・・!」
明らかに様子がおかしかった。ちぐはぐな言葉を繰り返す套矢は、まるで一人で会話しているかのようだ。祷葵と朝奈は一瞬顔を見合わせ、また套矢に視線を戻す。
祷葵の中に、ひとつの仮説が浮かび上がった。それはあまりにも突拍子のない、確証も何もない説であったが、今までの套矢の様子とも辻褄があう。
静かに祷葵は口を開き、その仮説を―・・・ひとつの疑問を、套矢にぶつけた。
「・・・套矢。お前は、本当に套矢なのか?」
「どういう・・・意味だ。」
痛む頭を押さえ、荒い呼吸をしながら套矢が問い返す。その瞳を真正面から見つめ、祷葵が言葉を続ける。
「お前も知っているだろう。古斑研究所が、何の研究をしていたか。何故、河拿研究所を狙ったのか。・・・それは、古斑研究所もまた、我々と同じ研究内容を持っていたからに他ならない。」
「・・・俺が、クローンだとでも言うのか?」
「ああ。・・・だが、言葉がひとつ足らないな。」
2.

祷葵が一歩、足を踏み出す。ふらつきながら套矢が後ずさる。一定の距離を保ちながら、套矢は動揺を隠せない表情で祷葵を睨んでいた。
祷葵の中の仮説が、確信へと変わりつつある。口をつぐんだまま話の続きを待つ套矢に、祷葵は望み通りの言葉を与えた。
「お前は、套矢の『人格』のクローンじゃないのか?耕焔が造り出し、耕焔の都合の良いように記憶を植え付けられ、耕焔の思い通りに動く、套矢のもう一つの人格。そうだろう。」
「・・・ちが、う・・・!」
頭をぶんぶんと振り、否定する套矢は明らかに狼狽していた。套矢が強く否定すればするほど、それは肯定へと変わっていく。
「耕焔はおそらく、私や両親に対する憎悪を生み出させるために事実を捻じ曲げてお前に伝えていたんだ。私たちがお前を捨てたのだと繰り返し言い聞かせてな。そして、耕焔はお前にその記憶しか与えなかった。套矢の記憶の形成に深く関わる、もう一人の人物のことは耕焔も知らなかったのだろう。だから、お前は朝奈を知らないんだ。」
追い詰めるような口調で、祷葵が畳みかける。固唾をのんで、朝奈も套矢の反応に注目した。
頭を押さえ、うつむいたまま套矢は痛みに耐えるように震えている。
コツ、とヒールがアスファルトを叩く音。祷葵が制するより早く、朝奈は套矢の眼前まで歩みを進めた。眉をひそめて見上げる套矢に、朝奈は白衣のポケットから取り出したものを見せる。
「套矢。これ、覚えてる?」
朝奈の手のひらでころん、と転がる小さな人形。薄汚れて所々黄ばんではいるが、それはもともと真っ白い体をしていたことがうかがえる。
朝奈の後ろで祷葵が息を飲む。どうやら、彼には心当たりがあるようだ。
「・・・それは・・・。」
套矢が目を見開いて朝奈の手の中に注目する。駄菓子のおまけについてくるような、やわらかいゴム製のちゃちな作り。
白い体から生える、二枚の大きな翼。ひょろりと伸びた長い尻尾。丁寧に作られた鋭い爪も、この体では何の威力も持ちそうにはない。くりくりとした大きな瞳が、子どもの喜びそうな愛くるしい表情を作っている。それは、古いアニメに出てくるような、小さな白いドラゴンの人形だった。
「・・・あ・・・。」
套矢の脳内に、ひとつの光景がよみがえる。それは、16年間押し殺されてきた、「套矢」の記憶。

祷葵と、套矢と、朝奈の三人で良く立ち寄った駄菓子屋。小さなラムネと一緒に詰められた、小さなゴム人形のこと。
わくわくと瞳を輝かせながら封を切った朝奈の手に転がり落ちたのは、真っ黒い体をした敵のキャラクターだった。対して、套矢の手の中に収まったのは、朝奈のものと対照的な色を持つ人形。
じわじわと涙を浮かべる朝奈の手から黒い人形を取り上げ、套矢は自分が当てた白いドラゴンを渡した。満面の笑顔に戻った朝奈を引き連れ、三人は「ある時刻」に間に合うよう急いで家路を辿る。
普段、外で遊ぶことが多かった三人だが、決まった曜日の、決まった時刻になると必ずどちらかの家に集まってテレビの前に座っていた。
ブラウン管の中で大暴れする白いドラゴン。その風貌から、人々には恐れられているが、本当は悪いやつらから街を守る、心優しい正義のヒーローなのだ。
そして、そのヒーローを応援するのが、三人の毎週の楽しみだった。
「・・・白の・・・フリーク・・・。」
自分でも気がつかないうちに、套矢はそう口にしていた。幼い頃大好きだった、アニメの名を。
朝奈の顔に笑顔が戻る。ゴム人形をぎゅっと握りしめ、套矢の名を呼ぶその声は喜びに震えていた。
祷葵も、ひとまず安堵の息を吐こうとした、その瞬間。

キイイィィィィ・・・・

耳鳴りのような、甲高い音が細く響く。同時に、套矢の様子が一変した。
頭を両手で押さえ、苦痛に顔を歪め、口から漏れる悲痛な呻き声は今までと比べ物にならない。
ただ事ではないその様子に、祷葵も顔色を変えて套矢に駆け寄った。
「套矢!大丈夫か!?」
「う・・・あ・・・、・・・っぐ・・・!」
套矢の足ががくがくと震える。もはや、立っていることすらままならない様子だ。
甲高く鳴り響いていた音がぴたり、と止んだ。ぐらりと崩れ落ちる套矢の体を、祷葵がしっかりと受け止める。かろうじて意識が繋ぎ止めたようだが、息も絶え絶えな套矢の瞳は虚ろだった。
套矢の背後で口を開けていた玄関の中から、靴音が鳴る。祷葵と朝奈は同時に音のする方へ視線を向け、一様に驚愕の表情を浮かべた。
中から現れた初老の男性は、手に小さな機械を握りしめながら二人に近付く。憎々しげな表情を浮かべて、祷葵はその男を睨みつけた。
「古斑・・・耕焔・・・!」
射抜くような鋭い視線を辿り、耕焔はにやりと笑った。迷いのない足取りで祷葵の前まで進むと、その腕の中に体重を預けている套矢の肘を掴んで引き寄せる。ふらつきながらも立ち上がった套矢の表情は前髪に隠れて読み取れない。
「わざわざご足労いただき、感謝します。河拿研究所長さん。副所長さん。息子にちゃんとお出迎えを頼んだはずなのに、とんだ迷惑をかけてしまって・・・。申し訳ない。」
あくまで普遍的な態度をとる耕焔を、祷葵は更に鋭く睨みつけた。口調こそ丁寧ではあるが、それが逆に不快感をあおる。
「套矢に・・・何をしたんだ。」
祷葵の拳が怒りに震える。先ほどの仮説が正しければ、その時は―・・・

その問いに答える代わりに、耕焔は不敵な笑みを浮かべた。

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第17話 団欒と弾丸

1.

売店の奥に和室が続いている。どうやらここはちょっとした居住スペースになっているらしい。
その和室に身を寄せ合うようにして数名の中年女性が集まっていた。いずれも、遷己には見覚えのある顔ばかりだ。血塗れになった遷己と瑞煕が和室に足を踏み入れると、中年女性が口ぐちに悲鳴をあげて遷己のまわりに集まってきた。
「ちょっと河拿くん!どうしたの!?」
「久江さん救急箱!救急箱とってー!!」
ちょっと待ってー、と返事を返して仲野が和室の奥に消えてゆく。遷己を畳の上に座らせて、瑞煕もやっと一息ついた。集まった女性のうちの一人が瑞煕を見やり、労わるように背中をなでる。
「あなたはどちらさん?遷己くんの彼女?」
遷己と瑞煕が同時に首を横に振る。「妹です」と遷己が一言告げ、瑞煕はぺこりと頭を下げる。
「はじめまして。妹の瑞煕、です。兄が、いつもお世話になっています。」
たどたどしいながらも敬語をつなげると、女性たちの間で歓声のようなざわめきがあがった。代わる代わる瑞煕の頭をなでたり肩をなでたり、まるで犬や猫を可愛いがるような手つきで少女を翻弄する。
「そういえば河拿くん、妹がいるって言ってた~!」
「やー可愛い!うちの娘に欲しいわぁ。」
べたべたと体中を触られ、瑞煕は困惑しながらされるがままになっていた。あの、えっと、などと言葉を探していると、救急箱を抱えた仲野が彼女たちを制する。
「ほーら!怪我人をあんまりいじめないの!」
「だって久江さん、この子すっごい可愛いんだもん。お人形さんみたい。遷己くんも妹ちゃんが可愛くて仕方ないでしょ?」
女性にそう問われ、息も絶え絶えだった遷己がキリッと顔をあげて「可愛いです」と同意する。やっぱりー!と声を揃えて盛り上がる女性たちを仲野がなだめ、ようやく怪我の手当てが行われた。

遷己の白衣を脱がせ、中に着ていたシャツも脱ぐとその傷口があらわになった。右肩がパックリと割れ、赤黒くてらてらと光っている。ちょっと沁みるよ、と一言置くと仲野は傷口を水で洗い流して消毒していく。
「いっ・・・!・・・っ!」
左手をぎゅっと握りしめ、遷己が激痛に顔をしかめる。テキパキとガーゼを乗せ、包帯で傷口を固定してゆく仲野を、女性たちは感嘆の声をあげながら見守っていた。
「さっすが久江さん。なんでも出来るのねー。」
「こんなの応急処置よ。あとでちゃんと病院で治療してもらわないとね。さ、次は瑞煕ちゃんの番だよ。」
そう言って仲野は瑞煕の白衣を脱がしてゆく。突然のことに瑞煕は目を白黒させた。顔を真っ赤にしておろおろとしながらも小さく抵抗する。
「え、あ、あの・・・!」
「大丈夫、おばちゃんだけだから恥ずかしくないって。お兄ちゃんには後ろ向いててもらうし。」
ねっ、と仲野に振り向きざまに笑顔を向けられ、遷己は慌てて瑞煕に背を向ける。それならば、と小さくうなずいて瑞煕は着ていたニットを脱いだ。白い肌に点々とついた傷を、仲野がひとつひとつ治療していく。その気配を背後で感じながら、遷己は瑞煕たちに背を向けたまま口を開いた。
「・・・そういえば、何でみんなここに集まってるんですか?他の人たちはほとんど避難してるのに。」
遷己の背後でいやあ、とかそうねえ、とかまとまりのない声があがる。ざわざわと繰り広げられるその話をまとめ、口を開いたのは仲野だった。

「・・・あたしたち、逃げ遅れちゃったのよ。大学の子たちがみんな避難するのを見届けてたら、もう街中にはあの変なのがうじゃうじゃいたでしょう?だから、うちのおばあちゃんがやってるこの店借りて、ここに隠れてたのよ。そしたら公園の方から人が来るからびっくりして!見てみたら遷己ちゃんだったから慌てて迎えにいったのよー。もーおばちゃん寿命縮んだわぁ。」
仲野の話に、ホントよねえ、と周囲から同意の声があがる。大学・・・今日、遷己はバイトのシフトが入っていなかったため難を逃れたものの、いつも通り出勤していた仲野たちは異形の襲撃を直に受けていたのだろう。怖かったわねぇ、と明るく笑い合う女性たちだったがその手はしっかりとお互いを繋ぎとめている。ふ、と頭に一人の人物の姿が浮かんで、遷己はみんなに背を向けたまま仲野に二つ目の問いを投げかける。
「・・・そういえば、暁良の姿見ませんでした?無事に避難してるんなら良いんだけど・・・。」
救急箱を片付けながら、仲野が暁良ちゃん?と聞き返す。ニットと白衣を着なおしながら、瑞煕も仲野の顔に注目して話の続きを待った。
「大学には来てたんだけど、みんなを避難させるときに暁良ちゃんの姿は見なかったねえ。あの子のことだから、多分どこかで無事だとは思うんだけどねえ。」
心配そうに仲野が眉をひそめる。遷己もこの数カ月で、暁良が冷静な判断力を持ち合わせた、年相応に賢い青年であるということは知っていた。あの朝奈の弟でもあるのだ、簡単にやられもしないだろう。しかし、あの朝奈の弟だからこそ心配だというところもある。
一抹の不安を抱えながら遷己が女性たちに向き直ったその時、売店の外で聞きなれた、不快な声があがった。天地を揺らすような大声で、しばしの休息に安堵していた遷己と瑞煕を再び戦場へ引きずり出そうとしている。
遷己と瑞煕は真剣な面持ちで顔を見合わせると、同時にゆっくりとうなずいた。靴を履いて立ち上がり、悲鳴をあげながら怯えている女性たちに向き直る。
「・・・傷の手当て、ありがとうございました。仲野さんたちはここにいてください。絶対、外に出ちゃだめですよ。」
ひとりひとりの顔を見渡して遷己が念を押すと、仲野が驚いたように目を丸くして声をあげる。
「ちょっと、あんたたちどこに行くつもりだい?そんな怪我で動き回ると危ないよ!」
そうよそうよ、と周りも同調する。仲野の言っていることは最もであったが、それでもここに居座るわけにはいかない。四年前のあの仇に、とどめを刺しにいかなければいけないのだ。
大丈夫です、と言う代わりに遷己は仲野たちに満面の笑みを見せる。瑞煕もにこりと微笑んで軽く頭を下げた。仲野たちの制止の声を振り切って、遷己と瑞煕は売店の外に飛び出す。
「遷己ちゃん!瑞煕ちゃん!」
背後から自分たちを呼ぶ、悲痛な叫び声がいつまでも響く。それでも二人は振り返らなかった。走って走って、公園の奥を目指す。やがて木々に囲まれた広場の中心に、黒い影がその姿を現した。

2.

ゆっくりと、慎重に異形に近付く。不気味なほど静かだ。上空で白き異形と黒き異形が交戦している声が、やけに遠くに聞こえる。ガンガンと頭を鳴らす鼓動と、体にまとわりつく緊張感。ピクリとも動かないその巨体は、もう絶命しているのだろうか。
遷己と瑞煕が、各々の片腕を変形させる。武器を構え、異形の顔を覗き込むようにそっと回り込む遷己の後ろから、瑞煕もいつでも飛び出せるように体を屈めて続く。
靴底がじゃり、と土を蹴った。その瞬間、

グオオオォォォ・・・!!

低く唸りながら、地に伏していた異形が目にも止まらぬ速さで鋭い爪を振りあげる。すかさず遷己の左腕から乾いた破裂音が響く。それと同時にひゅんっ、と刃がしなる音が聞こえ、遷己は真横に跳んで異形と距離をとり、再び左腕を掲げた。瑞煕は振りあげた異形の腕を深く切りつけると、すぐさま駆けだして異形から離れる。
ひとまずは異形の攻撃をかわせたようだ。遷己が安堵した瞬間、その背中に鈍い衝撃が走った。
「っ・・・!?」
状況を把握する前に地面に押し倒される。上からぎゅうぎゅうに押さえこまれ、息がつまる。肩に喰い込む爪は、あの巨大な異形のものに比べれば随分可愛いものだったが、それでも負傷した遷己の肩には十分だった。包帯の下から新たな鮮血がにじみ、遷己の顔が歪む。
「遷己兄さ・・・!」
駆けだそうとした瑞煕の声が、悲鳴に変わる。顔を上げてみやると、瑞煕の両肩を小型の異形が二匹がかりで押さえつけている。突然のことに成す術もなく、瑞煕も遷己と同じように地に伏した。
「お前・・・卑怯だぞ・・・!」
遷己が憎々しげに黒き巨体を睨みあげる。先ほど売店の中で聞いた異形の声は、仲間を集めるための、そして遷己たちをおびき出すための遠吠えだったのだろう。巨大な異形は、怒りで言葉を忘れているのか、低い唸り声を繰り返しながら遷己を睨み返している。
遷己の視界の隅で、白い刃が煌めいた。同時に異形が短く吠え、瑞煕に視線を向ける。
体をよじり、己を地面へ繋ぎとめていた楔を切り捨て、体勢を立て直した瑞煕の下に新たな小型の異形が向かう。体がふっと軽くなったと同時に、遷己はバネのように上体を起こした。
「瑞煕!」
背後に迫った危機を知らせようと、遷己は声を張り上げて妹の名を呼ぶ。右腕を大きく降りかぶりながら瑞煕が振り返る。間一髪、異形の魔の手は瑞煕に伸びることなく力を失った。
瑞煕の足元に、黒い亡骸が三つ無造作に転がっている。その亡骸を見やり、黒き異形が再び大きく咆哮した。仲間の死を憐れんでいるのだろうか?次の瞬間、その真意が目を疑うような形で現れた。
「なっ・・・!」
上空を見上げ、遷己が絶句する。瑞煕も同様、驚きのあまり言葉も出ないようだった。
小型の異形が、十数匹、いや、数十匹と群れをなして二人の頭上に、この公園の上空へと集まってくる。それを追いかけるように、八匹の白き異形が姿を現す。この町に蔓延る異形たちが、すべてこの公園内に集まっている。それは、まるで現実味をおびない異様な光景だった。
異形たちが、口ぐちに不快な鳴き声をあげながら遷己と瑞煕に襲いかかる。左腕を掲げ、ひたすらに異形を撃ち落としていく遷己の背中に、鋭い痛みと衝撃が走った。くぐもった声をあげて遷己がその場にひざをつく。
後ろを振り返らなくてもわかる。この痛みは、あの四年前の異形の爪の味だ。ふらつく遷己の頭上に、再び巨大な影が落とされる。
「兄さん!」
すかさず、瑞煕がその巨体に切りかかる。小型の異形たちに四方から妨害されながらも、その白い刃は異形の腹部へ深々と埋め込まれた。そのまま、瑞煕は異形の腹を真横に引き裂く。一文字に開かれた異形の腹から白い刃が引き抜かれた。耳をつんざくような叫び声があがる。小型の異形がバタバタと騒ぎ立て、痛みに暴れる巨体から遠ざかった。

憎悪に満ち満ちた赤い瞳で、異形が瑞煕を睨みつける。容赦なく叩きつけられた鋭い爪が瑞煕の横腹をとらえる。短い悲鳴をあげて、その小柄な体が地面に打ち付けられた。
「・・・みず、き・・・!」
背中に受けた傷が邪魔をして、上体を起こすことすら許されず遷己は地に這ったまま声をあげた。しかし、弱々しく絞り出されたその声では、異形の注意も引けはしない。
左腕を異形へ向ける。ガクガクと震えて定まらない銃口を、右腕で支える。負傷した肩が、背中が、激しい痛みを訴えた。
白くぼやける視界の中で、黒い大きな影がゆっくりと動いている。その歩みの先に瑞煕がいるのだろう。振りあげたその爪は、瑞煕にとどめを刺すものなのだろう。朦朧とする意識の中、遷己はただ弾丸を異形に撃ち込むことだけを考えていた。冷や汗とも脂汗ともつかぬものが額を流れる。
「・・・瑞煕・・・!」
声になっているのかすら怪しい、かすれた声で遷己はその名を呼び続ける。異形の爪が振り下ろされる。その爪が風を切る音も、瑞煕の悲鳴も、遷己にはもう何も聞こえなかった。
やめろ、やめろ、やめろ―・・・ 
懇願するように、遷己は声にならない声を上げ続ける。激しくぶれ続ける銃口が、わずかな変化を示し始めた。
ガチ、ガチ、と音を立てて遷己の左腕が再び形を変える。黒光りする細長い銃口が、その口を大きく開けた。三倍ほどの大きさに膨れ上がったその空洞から放たれる弾丸が、今までとは比べ物にならない威力を誇ることは間違いないだろう。
自身の左腕の変化を知ってか知らずか、遷己が渾身の力を込めて弾を放つ。爆発音のような唸りと共に、放たれた熱が異形の頭部をとらえる。瞬間、その頭部が跡形もなく消し飛んだ。
首から硝煙を立ち上らせながら、異形の巨体はしばらく硬直していた。ぐらりと揺れた体は、そのままバランスを崩してゆっくりと地に横たわる。
異形が絶命したのを見届けて、遷己はその顔に安堵の色を灯すことなく、ゆっくりと瞳を閉じた。力を失った左腕が、元の形を取り戻しながらぱたりと地に落ちる。そのまま、遷己は意識を手放した。

ずきずきと痛む体を押さえながら、瑞煕はゆっくりと上体を起こした。
異形の攻撃を直に受けた腕が、腹部が悲鳴をあげている。かすむ視界に、しんと静まり返った公園が映し出された。
首から上を失くした巨大な亡骸。そしてその奥に、血塗れで横たわっている兄の姿を見つけ、瑞煕はふらつく足を引きずるようにして歩き出した。
「兄・・・さん・・・。」
かすれる声で呼びかけても、遷己はなんの反応も返さない。激痛に顔を歪めながら、それでも瑞煕は歩みを止めなかった。一歩一歩踏み出すたびに、意識が白く霞んでいく。足が鉛のように重たい。
「兄さ・・・。」
遷己に手を伸ばしかけた瑞煕の耳に、一発の乾いた銃声が飛び込んできた。
背後から放たれた弾丸は、瑞煕の体を貫通して公園の草を揺らす。声をあげる暇もなく、瑞煕の体はその場に力なく崩れ落ちた。白衣に空いた丸い穴から、鮮血が溢れだして周囲を赤く染め上げる。
静寂に包まれた公園内に、草を踏む靴音だけが響いていた。

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第16話 その名は

1.

乾いた音が鳴り響くたびに、空を舞う黒い影がひとつ、またひとつと視界から消えてゆく。
あとどれくらい残っているのか、なんて考えたくもない。しかし、祷葵と朝奈が造り出した白き異形の力もあってか、その数は明らかに激減していた。無数と呼べた黒き異形に対し、その数はわずか九匹と一見不利のように思えるが、その力の差は歴然であった。
白き異形は、まるでハエを払うかのような軽やかさで黒き異形を次々と打ち取ってゆく。ふふん、と得意げに笑う朝奈の顔が容易に想像できた。
頼もしい、その白い影に背中を預けて遷己は再び眼前の敵に視線を戻した。掲げた左腕を右手で支えながら、動き回る標的に狙いを定める。破裂音と共に穿たれた熱い鉛は、見事黒き異形をとらえた。
「キュウウゥゥッ!!」
突如、遷己の背後で甲高い悲鳴があがる。聞きなれた黒き異形のとは明らかに違うその声に、遷己ははっとして振り返った。次の瞬間、切れ長の瞳がめいっぱいに見開かれる。
「なんだよ・・・あれ・・・!」
白き異形が、その四肢をだらりと力なく投げ出している。苦痛に歪んだまま凍りついたその表情は、強大な畏怖の存在が現れたことを遷己に伝えていた。
そして、その存在は、白き異形を口にくわえたまま大きな両の瞳で遷己を睨みつけていた。
以前、商店街に現れたものより一回りほど巨大だろうか。今まで感じたことのない程の圧倒的な存在感。漆黒の翼を広げ、その異形はまるで黒い壁のように遷己の前に立ちはだかっていた。
白い亡骸を乱暴に吐き捨て、異形はその赤い瞳をすう、と細める。笑っているかのような表情で、異形はゆっくりと口を開いた。
『オ前・・・生キテイタノカ』
「なっ・・・しゃべった!?」
驚きを隠しきれず、遷己は思わず後ずさった。その距離をつめるように、異形が一歩踏み出す。
『4年前・・・コノ手デ葬ッタハズ・・・。ナゼ、生キテイル?』
血の底から響くような低い声で異形が唸る。遷己の顔から、恐怖の色が消えた。
今の言葉が本当ならば、4年前泉の命を奪ったのはこの異形だ。ようやく現れた仇の顔を、遷己は憎々しげに睨みつける。
この異形が、すべての始まりだったのだ。長い間、祷葵を苦しめ、遷己と瑞煕が戦い続けてきた古斑の異形たちの親玉であり、おそらく古斑の最後の切り札だろう。
こいつを倒せばすべて終わる―・・・根拠のない確信だったが、体の内側からこみあげる高揚感がそれを肯定する。思わず笑みを浮かべ、遷己は体を震わせた。
「会いたかったよ・・・。お前を倒すために、俺は再び命をもらったんだ。4年前の・・・泉の仇を、今ここでキッチリとらせてもらうからな!」
そう言って黒光りする左腕を異形に向ける。威嚇するように大きく鳴いた異形の体に、一発、二発と続けて弾を撃ち込む。低い呻き声と共に異形の動きが止まった。
その隙に、遷己は一目散に駆けだして異形と十分な距離をとる。地を滑るように足をとめ、振り向きざまに異形に向けてもう一発、鉛を撃つ。
異形が体をのけぞらせてよろめく。全身から細い煙が立ち込めていた。しかし、再び遷己を睨みつけたその瞳は、衰えることない光を放っている。

にやり、と異形が笑った―・・・ ように見えた。

びゅう、と殴りつけるような突風。目も開けられないその衝撃に、遷己はとっさに両腕を眼前に構える。
巨大な物体が近付いてくる気配に、危険だ、逃げろ、と脳が騒ぐ。
左腕を前に突き出し、薄く目を開ける。しかし、ひらけたはずの視界は何故か黒く塗りつぶされていた。反射的に、遷己は銃の引き金を引く。
状況を把握する前に、遷己の右肩に激痛が走る。しかし、直前に放った弾丸が功を奏したのか、致命傷は免れたようだ。
溢れ出す温かい液体が、ゆっくりと白衣を染めてゆく。苦痛に顔を歪めながらも、遷己は体勢を立て直して異形を睨みつけた。
両者の間に、もはや言葉は必要なかった。相手を貫くような鋭い眼光は、互いの命を奪うことだけを考えている。
じりじりと間合いをとり、遷己はゆっくりと左腕に手を添えた。
黒き異形が、鋭い爪をギラリと光らせる。瞬間、遷己は弾かれるように駆けだした。
肩の傷をものともせず、ひたすら黒い巨体に弾を撃ち込む。乾いた音が絶え間なく響き、そのたびに異形が呻きながら悶える。ひとつひとつの傷は浅いが、確実に異形の体力を削ることは叶っているようだ。
地鳴りのような声と共に、黒光りする爪が横凪ぎに繰り出される。それを避けようとした遷己の体に衝撃が走り、次の瞬間、宙に投げ出されていた。
風を切って空を滑るその軌道を、鮮血がなぞる。数メートル離れた地面に叩きつけられ、ゴロゴロと転がりながらようやく遷己の体は停止した。
「・・・う・・・、ぐっ・・・!」
激しい痛みが全身を襲い、声をあげることすらままならずに遷己は地面に横たわる。
右手を動かすと、微かに指先が反応した。ぐっ、と力を込めると刺すような痛みが走る。
震える腕で、ようやく上体を起こす。額には脂汗がにじみ、浅く繰り返される呼吸は苦しげで今にも消え入りそうだ。
ふらつきながらも何とか立ち上がり、左腕を構える。とどめを刺そうとにじり寄る異形に向けて、一発。
穿たれた熱い鉛は異形の左目をとらえ、同時に空を揺らすような叫び声があがった。その声を聞きながら、遷己はひざから崩れ落ちた。銃を撃った反動で右肩の傷がより深く裂け、新たな痛みが遷己を襲う。
『オ・・・ノ・・・レ・・・!』
憎々しげに異形が唸る。遷己を睨みつけるひとつの瞳は憤怒に燃えていた。
鋭い爪が再び振りあげられる。逃げだそうにも、遷己の足は地面に根を張ったまま動かない。
痺れるような痛みに震えるひざは、遷己の体重を支えるにはあまりにも頼りなく、地面についた右腕は力を込めることすら出来ない。全身を襲う痛みと疲労感で、遷己は恐怖すら忘れていた。
ここまでか―・・・。覚悟して、目を閉じる。
ひゅっ、と風を切り、鋭い爪が振り下ろされる。しかし、その爪が遷己をとらえることは無かった。

2.

ザッ、と土を蹴る靴の音。風を切るもうひとつの刃の音。
ゆっくりと目を開いて見上げると、遷己を庇って前に立ちふさがる人物が見えた。黒い爪を白い刃で受け止め、眼前の敵を睨みつけるのはガラス玉のような大きな瞳。
白い刃が大きく半円を描くと、異形の爪が二本、三本と宙を舞う。激痛におののき、異形は後ずさりして二人から距離をとった。荒い息を吐きながら遷己は眼前に立ちはだかる、その人物の名前を呼ぶ。
「・・・瑞煕・・・。」
「遷己兄さん、大丈夫?ひどい怪我・・・。」
心配そうに眉をひそめ、瑞煕はかがみこんで遷己の顔をのぞく。彼女に体を支えられ、ようやく遷己は立ち上がった。
「俺なら・・・大丈夫だ。瑞煕、お前こそ怪我はないか?」
遷己の問いに、瑞煕は大きくうなずく。見たところ、彼女に目立った外傷はないようだ。安堵の息を吐いて、遷己は前方で唸りをあげる異形に視線を戻した。瑞煕も同様の方向を見やる。
「・・・兄さんは、少し休んでて。あとは、わたしがやる。」
そう言って異形を睨み、駆けだそうとする瑞煕の肩をつかんで制する。傷口がギリギリと痛んだが、そんなのに構ってはいられなかった。振り向いた妹の顔を正面から見やり、遷己は声を荒げる。
「バカ!ひとりで行って敵う相手じゃないだろ!無茶なことをするな!」
「遷己兄さんこそ!そんな傷で戦うほうが、よっぽど無茶してる。これ以上戦ったら、兄さんが・・・。」
瑞煕の瞳からぼろぼろと涙がこぼれる。瑞煕の肩から手を放し、遷己は諭すように口を開いた。
「だから大丈夫だって!・・・それに、俺はどうしてもあいつと決着をつけなきゃいけないんだ。あいつが・・・4年前、泉を殺した異形だ。だから・・・俺が戦わなきゃ。泉の仇を取りたいんだ。」
「あれが・・・4年前の、異形?」
背後の敵に視線を戻し、瑞煕が呟く。今まで見てきたなかで一番巨大な体格を誇るその異形は、痛みに耐え抜きながら赤い瞳で遷己と瑞煕を睨みつけている。
他の異形たちは皆、この個体を複製して造られたのだろう。そしてこの巨大な異形は四年間もの間、大事に仕舞われ育てられ、ここまでの強大な力を手に入れたのだ。
隻眼の異形が、怒りに震えながらその一歩を踏み出す。失った片腕の先からは異形の体液がぼとぼとと滴り落ちていた。同時に戦闘態勢に入りながら、瑞煕が口を開く。
「わたしも・・・一緒に、戦っていい?」
「ああ。それなら大歓迎。」
にやりと遷己が笑う。それを合図に、二人はバラバラの方向に走り出した。
遷己は異形の左側へ、瑞煕は右側へと回り込み、各々の武器を掲げる。異形が瑞煕に気を取られている間に、遷己は反対側の暗闇へと身を隠す。
乾いた銃声が一発。それと同時に異形の首元から体液が噴き出す。悲痛な叫び声をあげて、異形がぐるりと体を回した。正面から遷己をとらえ、無防備になった背中に白い刃が容赦なく切りかかる。斜めに大きく切り傷をつけ、瑞煕は地面へと降り立った。異形の片翼が支えるものを失くしてぶらりと垂れ下がる。もがくように翼をはためかせたが、鈍器のような重たい突風は、もはや異形の味方をしてはくれなかった。
『小娘・・・ヨクモ・・・!』
「えっ・・・?」
異形が言葉を発したことに動揺したのだろう、瑞煕の動きが一瞬止まる。その一瞬を、異形の鞭のような尻尾がとらえた。
ひゅん、と尾がなびく音。地面に叩きつけられた瑞煕の体に、異形の片足がのしかかる。体が軋む音がして、瑞煕は息を詰まらせた。
『コノママ踏ミ潰シテクレル・・・!』
「やめろ!!」
瑞煕をとらえている異形の足に狙いを定め、遷己が弾を放つ。その塊は黒い肉の奥深くに埋め込まれ、巨大な体が大きく傾いた。その隙に遷己は異形の足元に滑り込み、瑞煕を抱えあげる。

「瑞煕!大丈夫か!」
苦しそうに咳き込む瑞煕の瞳には涙が浮かんでいた。意識が途切れたのだろう、白い刃も今は元の腕の形に戻っていた。異形の爪が喰い込んだらしい、白衣の数か所から血が滲み出ている。
「ありがとう・・・兄さん。」
呼吸を整え、なんとかそれだけ言うと、遷己も真剣な表情でうなずいた。お互いの体を支え合うようにして立ち上がり、大分衰弱している異形に視線を向ける。
体のすべてを片方失い、異形はかなり不格好な体勢で地を這っていた。それでもなお、瞳に映した憎悪の念は消えてはいない。緊迫した空気も、なにひとつ変わってはいない。
緊張した面持ちで異形を見据えていた遷己の視界がぐらりと揺れる。頭が鉄球のように重くなり、支えきれなくなった体が前のめりになった。
「兄さん!?」
異変に気付いた瑞煕が慌ててその体を受け止める。息が荒い。額から流れた汗が頬を伝い、体全体が熱を発しているかのように熱かった。心配そうな瑞煕の体を押しのけ、遷己が絞り出すような声をあげる。
「・・・大丈夫、だ・・・。まだやれる・・・。」
「大丈夫じゃ、ない。怪我の手当て、しないと。今なら、あいつも手が出せない。」
異形を横目で見やりながら、瑞煕が再び遷己の体に手を回す。どこか落ち着いて手当てが出来る場所、異形の手の届かないところを探して周りをキョロキョロと見渡す。
住宅街や市街地から少し離れた、見晴らしの良いこの公園では、容易く身を隠せる場所は少なそうだ。異形の動向に細心の注意を払いつつ、瑞煕は遷己の体を支えながらゆっくりと距離をとる。
『待テ・・・逃ゲル気カ・・・!』
異形が低く唸りながら手を伸ばす。しかし、その爪は二人をとらえることなく宙を掻いた。
立ち上がろうにも負傷した片足がそれを許さず、異形はダルマのように地を転がる。周囲の草木をなぎ倒しながら暴れるその巨体を、瑞煕は冷たい瞳で見下ろした。
「いいから、そこで大人しくしてて。」
異形があらんかぎりの声を張り上げて吠える。様々な感情が入り混じった、悲痛な叫び声だった。
真っ直ぐ前を見据えながら、瑞煕は身を隠せる場所を探す。異形とも大分離れると、公園の入り口にある小さな売店が目にとまった。ひとまずあそこに身を隠そうと瑞煕が歩を向けると、中からひとりの中年女性が飛び出してくるのが見えた。驚きのあまり小さく悲鳴をあげ、瑞煕は足を止める。
「あれ、遷己ちゃん!やっぱ遷己ちゃんだ!」
「仲野さん・・・?」
重たい首をもたげて遷己が中年女性の顔を確認する。仲野は遷己の怪我を見やると目を白黒させて声をあげた。
「ちょっとあんた!ひどい傷じゃないの!手当てするから二人ともこっちにおいで!」
仲野は遷己と瑞煕の顔を交互に見ると早く早くと手招きする。困惑しながらも歩みを進める瑞煕に、遷己は小さく笑いながら「バイト先のおばちゃん」と告げた。合点がいったように、瑞煕も微笑みながらうなずいた。
扉の開かれた売店からは数人の声が漏れている。緊迫した外の空気とは対照的な賑やかな建物に、二人はゆっくりと足を踏み入れた。

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第15話 伝える

1.

鈍色の倉庫街を全速力で駆け抜けながら、瑞煕はこみ上げる焦りを隠せないでいた。
町を襲撃する異形の討伐は、遷己が引き受けてくれている。どれだけ黒い屍を積み上げても、古斑がその攻撃の手を止めない限り彼の敵打ちは終わらないのだろう。不規則に聞こえてくる銃声が、彼の怒号のように聞こえた。
小型の異形がまるで羽虫のように瑞煕にまとわりつく。その羽虫を払うかのように切り捨て、注意深く辺りを見渡しながらも瑞煕は足を休めようとはしない。
白い生物が空中で舞うように戦っている。その周辺で一体どれだけの異形が散っているのか瑞煕には想像もつかなかった。

町の中心部に入ると、既にそこは逃げまどう人々で溢れかえっていた。悲鳴があちこちから上がり、まさに阿鼻叫喚といったところだ。
人々の上空を、何か探すように旋回している黒い影は、瑞煕に気付くと短く吠えて真っ直ぐに向かってくる。なるべく多くの異形を引きつけ、瑞煕は人通りの少ない路地裏へと誘導する。
そして、まんまと誘いに乗った異形たちは断末魔の雄叫びを上げる暇もなく次々と切り捨てられた。瑞煕の足元に黒い塊がごろごろと転がる。
息を切らせて、瑞煕が黒く広がった地面を見渡していると、不意にその上空から影が落とされた。はっと息を飲んで見上げた視界の隅に黒い影がちらりと映るその大きさからして、今足元に転がっている異形たちの倍くらいはあるだろう。慌てて路地裏を駆け抜け、影を追う。
目的もなく旋回していた小型とは違い、その黒き影は何かを追いかけているような迷いのない軌道で宙を滑る。
古斑の異形が目標と認識して狙うのは河拿研究所の人間だけだ。ならばあの異形の目前にいるのは遷己なのだろうか?
人の波を掻きわけようとした瞬間、瑞煕の耳に聞きなれた銃声が飛び込んでくる。しかし、その銃声は瑞煕が今追っている異形とは明らかに違う方向から響いていた。ぐるりと上空を見渡すと、遠く離れた場所で異形が一匹、二匹と撃ち落とされる。
間違いなく、遷己はあの場所にいる。だとしたら―・・・
カヤトの言葉を思い出す。嫌な予感がする。心臓が、はやく、いそげと急かすようにどくどくと脈打つ。
逃げまどう人の流れに逆らい、瑞煕は黒い影を追って走りだした。その異形の眼前にいる人物もまた、先ほどの瑞煕と同じことを考えているのだろう、人気の少ないほうへ、人の流れから少しでも離れたところへと誘導している。瑞煕としても好都合だった。
黒き異形がゆっくりと翼をたたむ。一瞬の隙も逃すまいと、瑞煕は素早く右手を変形させた。遠目に、異形を先導していた人物が見える。嫌な予感が的中して、瑞煕は目を見開いた。

見慣れた制服だった。ずっと会いたかった顔だった。
その人物は、民家の塀に背中を預けて、異形と対峙している。両者睨みあい、時の流れが止まっているかのような張り詰めた緊張感。
その感覚を、瑞煕は良く知っている。あの時、瑞煕を時の濁流から救い出し、身を挺して守ってくれた人物。その人物を、今度は瑞煕が守る番だった。
大きく息を吸いこみ、瑞煕は出来るかぎりの、精一杯の声を張り上げた。

「―・・・鴕久地くんっ!!」
その瞬間、四つの瞳が瑞煕を捉える。訪れた一瞬の隙。なりふり構ってなどいられなかった。
右腕を大きく降りかぶり、異形に切りかかる。胸を一文字に切り裂かれた異形は、耳をつんざくような悲鳴を上げて再び上空へと舞いあがった。その場から逃げるように必死に翼をはためかせるが、負傷した体では上手くいかないらしい。十数メートル離れたところで異形は下手な踊りを踊るように空中でもがき、やがて力尽きて地に伏せる。異形の両の目から赤い光がすう、と消えてその体はぴくりとも動かなくなった。
瑞煕はそっと閨登に向き直ると、腕の変形を解く。ボロボロに裂けた袖の下に、すらりと伸びた白い腕が戻る。元の姿を取り戻した右腕をそっと撫で、瑞煕は静かに口を開いた。
「・・・大丈夫、だった?」
「河拿さん・・・。」
目を見開いたまま、呆然とした様子で閨登が瑞煕の名前を呼ぶ。その表情は、驚愕なのか、恐怖なのか、その両方なのか。眉をひそめて瑞煕が顔を伏せる。
せっかくしゃべれるようになったのに、せっかく伝えられるようになったのに、いざとなると言葉が何も出て来ない。これでは前と何も変わらない。
ぎゅっと胸を押さえて、瑞煕は顔を上げる。・・・もう逃げるのは嫌だ。何も伝えられないまま終わるのは、嫌だ。
「・・・聞いて、欲しい。わたし・・・鴕久地くんに、どうしても伝えたいことが、ある。ひとつだけ、絶対に、誤解して欲しくないことがある。だから・・・手術した。声を、もらった。」
訝しげな表情で閨登が眉をひそめる。今まで、閨登が瑞煕に向けたことのなかったその顔に、瑞煕の心がちくりと痛んだ。その痛みをごまかすように、瑞煕は声を張る。
「わたし、鴕久地くんのこと、嫌いになんか、なってない。絶対に、嫌いになんかならない。・・・わたしのほうこそ、鴕久地くんに、嫌われたって、勝手に思いこんで、鴕久地くんのこと避けてた。・・・ごめんなさい。」
次から次へと言葉が溢れ、口にするたびに瑞煕の胸が軽くなってゆく。今まで言えなかった言葉は、伝えられなかった想いは、瑞煕の胸の中で相当な大きさに膨らんでいた様だ。
小さく首を横に振り、閨登が困惑したような表情を浮かべる。
「謝らないで、河拿さん。・・・僕のほうこそ、ごめん。河拿さんに、そんな誤解を抱かせるような態度をとってたんだね。本当に、自分が情けないよ。」
そう言って自嘲気味に笑う。その瞬間、瑞煕の中に何か温かいものが流れ込んできた。
いつだって閨登は、瑞煕に罪の意識を持たせまいとその笑顔の中に全て背負い込むのだ。こんな状況でも、それは変わらない。本当に―・・・
「・・・本当に、優しい。鴕久地くんは。その優しさに、わたしはずっと、助けられてきた。守られてきた。鴕久地くんは、ずっとわたしの特別だった。・・・わたし・・・。」
ずっと伝えたかった、大事なこと。大事にしまいすぎて、いつの間にかこんなに大きくなっていた気持ち。
閨登の目を真正面から見つめて、瑞煕は一言一句を大切に紡ぐ。
「わたし、鴕久地くんのことが好き。」
「っ・・・!」
閨登が息を飲む。見開かれた瞳は、瑞煕を捉えて離さない。
瑞煕が言葉を続ける。つい数日前までは、一番知られたくなかったこと。4年前あった出来事、自分の真実を、今は閨登に全て知って欲しかった。
その結果が、どっちに転ぼうとも。
2.

「・・・さっき、見たと思う。わたしの右腕は、あの黒い異形を倒すための、武器。そのために、わたしは造られた。・・・4年前、河拿研究所にいた、梶浦理子という人物。わたしは、その人から造られたクローン。…だから、月島カヤトは、わたしのことをずっと理子って呼んでた。四年前、理子はあの人の恋人だったから。」
顔を伏せ、瑞煕は自身の右腕をさする。閨登からの反応は返ってこない。
「・・・理子が死んで、わたしが造られた。わたしの兄さんも、そう。造られたクローンの人間。・・・こんなこと、信じてもらえないかもしれない、けど。本当のこと。」
瑞煕の声が震える。ひとつひとつ、真実を伝えるたびに瑞煕の胸が軽くなる。それと同時に、閨登にこの真実を背負わせ、巻き込むことが自分の傲慢のように思え、瑞煕は軽くなった胸の中にまた新たな石を放り込まれるような、重苦しい罪悪感が芽生えるのを感じた。目頭にこみあげる熱い雫は、その罪悪感からくるものなのだろうか。
顔を上げて閨登を見やる。視界はぼやけ、閨登が今どんな表情をしているのか瑞煕には分からない。
「・・・こんなわたし、だけど。鴕久地くんが、好きです。・・・これからも、一緒にいたい。一緒に・・・いて・・・。」
涙に紛れ、最後のほうは言葉にならなかった。大粒の雫をぽろぽろと零し、瑞煕は懇願するようにしゃくりあげる。
嫌いにならないで欲しい、見捨てないで欲しい、受け入れて欲しい。身勝手な願いなのは分かっているが、瑞煕はそれでもこみ上げてくる想いを止められなかった。それらの願いは全て言葉にはならず、涙として大きな瞳から零れ落ちる。
ザッ、と靴底がコンクリートを擦る音が聞こえる。視線を這わせる前に、瑞煕の体は温かい胸の中に投げ出されていた。背中に腕が回され、ぎゅう、ときつく抱きしめられる。
この温もりを、瑞煕は良く知っていた。
初めて会った日に、自分を異形の爪から庇ってくれた腕だった。冷たい倉庫の中で、自分を励ましてくれた体温だった。抜け殻のようになった自分を、研究所まで送り届けてくれた手のひらだった。
その温もりの主の名前を口にすると、瑞煕の胸の中からまた温かいものが涙と一緒に溢れ出す。自分はいつだって、この温もりに、この腕に守られてきたのだ。頭上から聞こえる閨登の声は、瑞煕を安心させるように優しく響く。
「河拿さん・・・ありがとう。本当のことを教えてくれて。すごく嬉しい。河拿さんは今までこの腕で、・・・こんな細い腕で、僕たちをずっと守ってきてくれたんだね。本当に、ありがとう。」
「鴕久地・・・くん・・・。」
その名を呼ぶと、瑞煕を抱きしめる腕に一段と力がこもる。心臓がどくどくと早鐘を打ち、顔も体も痺れるように熱い。恐る恐る、瑞煕は閨登の背中に腕を回すとその制服を掴んだ。ひやりとした風と内側から感じる熱が心地よく瑞煕を揺さぶる。
その温もりを体に覚え込ませるかのようにしばしの間抱き合い、二人はゆっくりと体を離す。そっと顔を上げると、瑞煕が一番見たかった笑顔がそこにはあった。慈しむような眼差しで、瑞煕も微笑み返す。

穏やかな空気を共有する二人の頭上を、黒い影が通り過ぎる。確認しなくても分かる。それは、鳥でも飛行機でもない。
「・・・行かなきゃ。」
名残惜しそうに閨登を見上げ、瑞煕はゆっくりと影が飛び去った方向へ足を向ける。その腕を、閨登は反射的に掴んでいた。
「河拿さん!」
その声に呼び止められ、瑞煕が振り返ると、心配そうに眉をひそめる閨登の顔があった。何かを言いだそうとして口を開き、閨登はそのまま言葉を飲み込む。目を伏せ、ゆっくりと掴んでいた腕を離す。
閨登自身も、自分がとった行動に困惑していたのだ。瑞煕が、あの黒き異形を討伐するために造られたクローン人間なのだと、さっき彼女自身の口から聞いた。そのための武器も、この目で確認している。
それでも心配だった。やっとで気持ちが通じ合った少女を、この愛おしい存在を危険な目にさらしたくはない。そんなワガママは、彼女が困惑するだけだというのに。
口をつぐんだままの閨登の内心を察したように、瑞煕がふふ、と鈴を転がすような笑い声をあげる。閨登が視線を戻すと、瑞煕は幸せそうな、無邪気な笑みを浮かべていた。
「大丈夫。あんなやつら、全然こわくない。わたしが一番こわいのは、鴕久地くんを失うこと。だから・・・鴕久地くんを守るためなら、わたし、なんだってできる。」
そう言って笑う彼女は、どこか無鉄砲な強ささえ感じられる。何を言っても、彼女を止めることは出来ないのだろう。あんなに強く抱きしめた確かな温もりが、腕に残っていた感触が、どこか現実味を帯びずにぼやける。まるでこのまま、瑞煕がいなくなってしまうかのような不安さえ感じさせた。悲鳴を上げ、泣き出しそうになる心をぎゅっと押さえて、閨登は口を開いた。
「・・・僕だって、同じだよ。河拿さんを失うことが何よりも怖い。・・・だから、絶対に無茶はしないで。そして、全部終わったら・・・僕からもう一度、告白させて欲しい。・・・約束してくれる?」
真剣な表情で閨登が問う。瑞煕が必ず戻るという確信が持てなければ、不安で胸が押し潰されそうだった。瑞煕も、その口元には笑みを湛えたまま真剣な眼差しを返す。そして、閨登の黒い大きな瞳を真っ直ぐに見つめながらしっかりとうなずいた。
「うん、約束する。絶対、帰ってくるから。・・・だから、安心して。」
そう言ってにっこりと笑う。冬の柔らかな日差しに照らされて、少女は幻想的な美しさを放っていた。
ふわりと風を受けて白衣がひるがえる。その影から白く輝く刀身が姿を現した。黒き異形を切り裂くための、少女の武器。そして、大切な人を守るための、少女の盾。
透き通るような髪をなびかせて、少女が駆けだす。乾いた靴音が段々と遠ざかってゆく。
その後ろ姿を、閨登は眉をひそめて見つめていた。
瑞煕がどれだけ大丈夫だと強くうなずいても、何百の約束を交わしても、きっとこの不安が取り除かれることはないのだろう。
どれだけ強く腕の中に閉じ込めても、瑞煕はするりと抜けて戦場へ赴くに違いない。
諦めにも似た気持ちで、閨登は上空を仰ぐ。幾分か数は減ったものの、未だ空を旋回するのは黒き異形の姿だけだ。
遠くから銃声のようなものが響いている。続いてあがる鳥とも獣ともつかぬ泣き声は異形の断末魔なのだろうか。
世界の終わりに、自分ひとりだけが取り残されたような感覚に、閨登は目を細めた。
目に映るものすべてが、耳に入るすべての音が、自分から切り離された、まるで画面の向こうの景色のように思える。
瑞煕がいない世界は、こんなに孤独で味気のないものなのだろうか。拳を強く握りしめ、閨登は瑞煕が消えていった通りに目を向ける。
閨登に出来ることは、ただ少女の無事を祈ることだけだった。