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第14話 理子

周りの景色が、段々寂れたものへと変化してゆく。背の低い鈍色の建造物が規則正しく並んだそこは、どうやら今は使われていない廃倉庫らしい。
この町にも、こんな退廃的な景色があったのかと、瑞煕は半ば感心にも似た気持ちで歩を進めた。カヤトに指定されたのはこの辺りなのだが、この錆ついた空気と静けさは、人ひとり程の気配なら容易く隠してしまいそうだ。
一際大きな倉庫の前で、瑞煕は足を止める。倉庫の扉がわずかに開いていた。ここだ、と確信すると瑞煕は躊躇いなくその扉に手をかけた。
錆びた重い扉は、焦らしながらゆっくりとその口を開ける。慎重に中を見渡しながら、瑞煕はそっとコンクリートの床を踏んだ。恐る恐る、中央へと歩を進める。
「待ってたよ、理子。」
不意に倉庫の奥から声があがる。ぐるりと視界を回して声の主を探すと、薄暗い影の中から白衣を揺らして一人の男が姿を現した。きっ、と男を睨みつけ、瑞煕は唸るような声をあげた。
「月島・・・カヤト・・・!」
「あ、やっと口きいてくれた。・・・てか理子、顔怖いよ。何でそんなに怒ってるの?」
へらへらとカヤトが笑う。呆れたものだ、この男は自分に後ろめたいことが無いとでも思っているのだろうか。カヤトを睨みつけたまま、瑞煕が口を開く。
「・・・全部聞いた。あなたが、理子に何したのか。」
そこまで聞くと、カヤトは瑞煕に向かって進めていた歩みを止める。そして、大袈裟に肩をすくめて笑ってみせた。
「それでそんなに怒ってるの~?何で、あれは事故じゃん。俺だって可愛い彼女を亡くして傷心なんだからさ、そんなに責めないでよ。」
「・・・ふざけないで。最初から殺すつもりだったくせに。」
カヤトを睨みつける瑞煕の瞳には、確かな憎しみが込められていた。腰に手をあてて、カヤトが首を傾げる。
「所長さんたち、被害妄想強すぎじゃない?それに、理子が死ななきゃあんたはこの世にいない訳だろ。だったら、むしろ俺に感謝するべきじゃない?」
カヤトが言葉を発するたび、瑞煕の中には感謝の念どころかどんどん憎悪が増すばかりだった。怒りを押し殺し、震えた声で瑞煕が問う。
「・・・なんで・・・。あなた達は、祷葵に何の恨みがあるの?」
古斑が、祷葵を追い詰めるために理子と泉を殺したのだ、と朝奈は言った。そこまで徹底的に追い詰める必要がある程の怨恨が両者の間にはあるのかもしれない。
しかし、瑞煕の予想とは裏腹に、カヤトはきょとんとした顔で答えた。
「恨み?別に、所長さんには何の恨みもないよ。俺たちはただ、所長さんの研究内容が欲しいだけ。こんな立派なクローンを作れる程の、所長さんのアタマが欲しいんだよ。」
ぞくり、と瑞煕の背中を冷たいものが撫で上げる。今まで幾度と祷葵の研究を手伝ってはいたが、結局何を研究していたのかは知らされず仕舞いだったのだ。古斑の狙う祷葵の研究内容というのもまた、祷葵自身の口から語られる事はなかった。
そして、気付かなかったのだ。祷葵の研究成果がどこにあったのか。気付かなかったのだ、自分たちが生きた研究内容だったということに。
じり、と瑞煕が後ずさる。明らかに動揺している様子の彼女を見て、カヤトがにやりと不敵な笑みを浮かべた。

「・・・ねぇ、理子。何で俺が理子を呼び出したか分かる?」
ゆっくりと右手を庇う体勢をとりながら、瑞煕はカヤトに視線を這わせた。張り付けられたようなその笑顔は、やはり瑞煕に不快感しかもたらさない。
研究所で、四人に届いた古斑からの宣戦布告。そして、数日前に届いたという一文のメッセージ。カヤトから放たれた一言。それらは全て、「4年前」というひとつの過去に収束する。
「4年前の・・・おさらい。わたしを、殺すの?」
ピリピリとした緊張感が瑞煕の体を締め付ける。指の一本も自由に動かせないような張り詰めた空気の中、不意にカヤトが笑い声を上げた。
「あっははは!理子、所長さんの被害妄想に影響されすぎ。俺は別に理子を殺そうなんて微塵も思ってないってば。そんなことしたらウチの所長に怒られちゃう。
俺はただ、四年前と同じように理子を口説きに来ただけ。殺す殺さない以前に、まずこっちのが先でしょ。」
・・・何を言っているのだこの男は?鋭い眼光でカヤトを睨みつけたまま、瑞煕は眉をひそめた。
カヤトの言葉に信頼を置けるはずもなく、体の緊張感からは未だ解放されないままだ。
やっとの思いで、瑞煕は「どういうこと」と疑問を口にした。喉がカラカラで声がかすれる。張り付けた笑顔のまま、カヤトが一歩踏み出した。瑞煕の体がビクン、と大きく跳ねる。
「だから、そんな警戒しなくていいってば、理子。ねぇ、ウチの研究所においでよ。そうしたらもう所長さんに手を出さない。・・・俺と一緒に来て。」
瑞煕の前に、まるで姫をエスコートするかのような優しさで手が差し伸べられる。カヤトの一挙一動に注意を払いつつ、瑞煕は視線だけ上に向けた。野生動物のように警戒している瑞煕を、愛おしそうに見つめるカヤトの瞳に、一瞬頭の奥底が揺さぶられるような感覚に陥った。
カヤトと一緒に古斑研究所へ行けば、祷葵は助かるという。理子ならそれを望むのだろうか。この笑顔を信じるのだろうか。どくどくと心臓が脈打つ。
五か月前、瑞煕の一番古い記憶がふと蘇る。「私の研究内容が古斑の手に渡ったら大変なことになる」、と祷葵は言っていた。それは、瑞煕自身が古斑研究所へ行くことも指しているのだろう。
差し出された手のひらに視線を戻し、瑞煕は大きく首を横に振った。カヤトの誘いに対する拒否と、一瞬躊躇った自分の思考回路を振り払うように大きく。ん?と訝しげにカヤトが唸る。
「わたしは・・・あなたとは一緒に行かない。祷葵のこと、裏切れない。」
「んー?俺と一緒に来たら、所長さんはもう戦わなくていいんだよ。それって、所長さんが一番望んでることでしょ。それを阻止する方が所長さんに対する裏切りじゃないの?理子はまだ所長さんに無理させたいわけ?」
「違う。・・・あなたの言うことが、信用できない。それだけ。」
神経を逆撫でするようなカヤトの言葉を、瑞煕は苛立ちを隠せない口調で突っぱねた。

2.

はぁ、と息を吐いてカヤトは差し出していた手を下ろす。諦めたように瑞煕に背を向け、腰に手をあてて倉庫の天井を仰いだ。そして、ふーっと長い息の後に言葉が吐き出される。
「まぁーたフられちゃった。套矢に怒られちゃうなぁ。」
聞こえてきた名前に、瑞煕の体は自然に反応していた。忘れもしない、1週間前に瑞煕はその名前を確かに耳にしていたのだ。うなされながら何度も祷葵が口にしていた名前。瑞煕の胸がざわざわと騒ぎ出す。
「・・・トウヤって・・・。」
小さく呟いた瑞煕の声を、カヤトは聞き逃さなかったようだ。まるで新しいオモチャを買ってもらった子供のような嬉々とした表情を浮かべて瑞煕の方を振り返る。
「え、所長さんから聞いてないの?もー駄目だなぁ所長さんは。ほんっと何にも話してくれてないんだね。
套矢は、所長さんの弟だよ。でも今は、俺の弟。ついでに言うとウチの所長さん。まー実際研究所を動かしてるのはオヤジだけどね。套矢はお飾りみたいなもんだよ。」
ぽんぽんと無造作に投げ出されるカヤトの言葉は、拾い集めるのだけでも一苦労だった。拾ったところで何一つ理解が追い付かず、瑞煕はただただ硬直する。
祷葵の弟であり、カヤトの弟であり、古斑研究所の所長を務めている男でもある。その3つのピースはどんなに組み合わせようとしてもちぐはぐで上手く噛み合わない。が、そのピースを全て持った男が套矢なのだ。祷葵が涙ながらに呼んでいた存在なのだ。
押し黙って思考を巡らせ、動揺を隠しきれない瑞煕を一瞥してカヤトが満足げに笑う。
「どう、気になる?河拿研究所と古斑研究所の因縁の物語聞きたい?ま、長くなるから続きは研究所で話そうよ。」
またそのパターンか、と瑞煕は眼前の男を睨みつける。瑞煕が食いつく餌をちらつかせて何とか釣り上げようと、古斑研究所へ引っ張ろうと必死なのだ。首を横に振り、瑞煕は怒りと呆れを含んだ声で拒否する。
「・・・聞きたくない。あなたの口からは、何も聞きたくない。」
「じゃあ、誰から聞くの?所長さんは何にも教えてくれないんでしょ。いつまでイイコちゃんしてるの?・・・理子はもっと、自分の探究心と欲求に忠実だったよ。」
なかなか折れない瑞煕に業を煮やしたのか、カヤトが苛立ちを隠せない様子で声を荒げた。負けじと瑞煕も声を張り上げる。胸の真ん中が、ぎゅうと鷲掴みにされるような痛みを訴えた。
「わたしは、理子じゃない!あなたの言う通りには、ならない。」
両者とも鋭い眼光で相手を睨みつける。ふん、と鼻を鳴らしカヤトが瑞煕から顔を背けた。
「はいはい、分かったよ。理子が俺のこと大嫌いなのはよぉーく分かった。さっさと新しいカレシくんのとこに行けば?・・・ま、カレシくんが無事だったらの話だけど。」
ぶっきらぼうに突き放され、瑞煕の目の色が変わる。聞き捨てならない話に、嫌な予感に、瑞煕は全身の血の気が引くのが分かった。カヤトが言う人物に思い当たるのは一人しかいない。恐る恐る、瑞煕は口を開いた。

「・・・どういう、こと?鴕久地くんに・・・何、したの?」
「べっつに。『まだ』何もしてないよ。」
気だるそうに答えるカヤトの言葉が終わるや否や、ひゅっと風を切る音がした。次の瞬間には、カヤトの喉元に白い刀身が真っ直ぐに突きつけられていた。瑞煕の右腕が肩からその原型を手放している。はらはらと舞う埃のような服の繊維が、倉庫内に差し込むわずかな日射しを受けてキラキラと光っていた。
カヤトがごくり、と唾を飲み込む。脈打つように動く喉が刃の切っ先に触れ、チクリと痛んだ。カヤトを見上げる瑞煕の瞳は氷のように冷たい。このままその無防備な喉を切り裂くことも躊躇わない様子だった。怒りを含んだ声で、瑞煕がカヤトを問い詰める。
「答えて。鴕久地くんは、どこ?何をするつもり?」
「さ、さあな。俺だってエスパーじゃないんだから、アイツの行き先までは知らないよ。ただ、今日いっぺんに放たれたウチの子たちが、そろそろ町に着くころだからね。早くしないと本当に手遅れになっちゃうかもよ?」
突きつけられた刃に喉が当たらないよう、細心の注意を払ってカヤトは言葉を絞りだす。息苦しそうに震えるその声は、先ほどまでの勢いなど微塵も感じられない。ゆっくりと刀身を下げ、瑞煕はカヤトを睨みつけたまま数歩後ずさる。解放された喉から大量の空気が溢れ、カヤトはその場に膝をつき盛大に咳き込んだ。そんなカヤトの様子を、瑞煕は冷たい瞳で見下ろす。
「・・・最低。」
軽蔑しきった表情で、冷めきった声色で、瑞煕はそう吐き捨てるとカヤトに背を向ける。そのまま、瑞煕の足は倉庫の出口に向かって駆けだしていた。コンクリートを蹴る音が段々と遠ざかってゆく。力なく立ち上がり、カヤトは瑞煕が出て行った方を見つめる。
「最低か・・・そうかもなあ。」
自嘲気味に呟き、カヤトは乾いた笑い声を上げる。重たくうな垂れる頭を支えるように右の手のひらに顔を埋めると、やがてじんわりと温かいものが指を濡らした。
走り去った瑞煕の背中が、理子と被って見えた。背中だけではない。瑞煕から放たれた言葉が、仕草が、表情が、すべて理子に変換されてカヤトの脳内に残る。
ただ、カヤトの記憶の中の理子と違うのは、瑞煕はついに一度もカヤトに笑顔を見せなかったことだ。
四年前の記憶を手繰り寄せ、カヤトは理子の笑顔を思い出す。
告白した時に見せた、はにかんだような理子の笑顔。一緒にいる時に見せる、幸せそうな理子の笑顔。
自分が何のために理子に近付いたのかを忘れさせるような、そんな幸福感をカヤトは確かに感じていたのだ。
「理子・・・お前に会いたいよ。」
埃っぽい暗い天井を見上げ、カヤトはぽつりと呟く。理子の移し身である瑞煕に真っ向から拒絶され、ようやく実感が湧く。

理子は、もういない。

体は脱力しきり、心はぽっかり穴があいてしまったような虚無感に襲われる。次の行動に移ろう、という急かすような気持ちも、その穴から次々と抜け落ちてやがて空っぽになる。
「もう・・・どうでもいいや。・・・どうでも。」
力ない足取りで、カヤトは倉庫の出口へと向かう。それを阻止するかのように、白衣の中で携帯電話が唸りをあげて震えた。
胸ポケットから携帯電話を取り出すと、着信相手すら確認せずにそのまま肩越しに背中側へ放り投げる。カヤトの背後でカシャン、と携帯電話がコンクリートに叩きつけられる音がした。

悲鳴の様なその音に目もくれず、カヤトはそのまま倉庫を後にした。

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第13話 ことのは

どれくらいの間眠っていたのだろう。カーテンの閉じられた白い部屋で瑞煕は目を覚ました。
頭がぼやけて、記憶をうまく辿れない。むしろ、辿る場所に記憶が無いのかもしれない。
ゆっくりと上体を起こして、体に手を当てる。見慣れない薄水色の病衣を着ていた。どうして、こんなものを着ているのだろう?回らない頭で考えても、すぐに答えは出てこない。
ぐるりと回りを見渡す。カーテンが閉じられているため若干薄暗くあるものの、光の加減からしておそらく今は昼頃だろう。見慣れた自分の部屋がやけに懐かしく感じた。
分かることからひとつずつ、今の状況を分析しようとしていると、不意に扉がノックされた。どうぞ、とも開いてます、とも返せずに瑞煕はただ扉を見つめる。ガチャリ、と音を立てて扉が開かれ、廊下から顔を覗かせたのは朝奈だった。上体を起こした瑞煕を見とめると、朝奈は目を見開いて駆け寄った。
「瑞煕ちゃん!目が覚めたんだ。大丈夫?どこも辛い所は無い?」
状況が飲み込めないまま、瑞煕はうなずく。良かった、と笑い朝奈は踵を返した。
「ちょっと待ってて、祷葵たちを連れてくるから!」
そう言って朝奈はバタバタと部屋を後にする。閉められた部屋の扉ごしでも、祷葵を呼ぶ朝奈の声がよく聞こえた。慌ただしい足音と共にその声も段々遠ざかってゆく。
相変わらず賑やかな人だ、と瑞煕は思わず笑みをこぼした。
「―・・・ふふっ。」
続いて聞こえてきた笑い声に、瑞煕は顔を強張らせ、咄嗟に喉を押さえる。今の声が自分から発せられたものだと気付くのに数秒の時間を要した。
瑞煕の胸がどくん、と高鳴る。喉に触れた指先が包帯の感触を伝えてくる。
「・・・あ・・・。」
やっと最後の記憶に辿りつき、瑞煕は声をあげた。
そうだ。朝奈に喋りたいと相談して、祷葵が医者を呼んでくれて、治療を・・・手術を受けたのだ。自分は今まで麻酔で眠っていたのだろうか?時刻を知りたくて瑞煕はベッドの脇に置いてある目覚まし時計に手を伸ばした。可愛らしいネコのキャラクターの腹部に表示されている時刻は11時半を指している。
・・・?医者が到着したのは確か午後一時だったはずだ。瑞煕が小首を傾げていると、バタバタと騒がしい足音がたくさん近付いてくるのが聞こえた。どうやら朝奈たちが戻ってきたらしい。
「瑞煕!」
バン、と扉を開けて飛び込んできたのは遷己だった。その後ろから祷葵、最後に朝奈と続き、プラスチックのネコを抱えたままの瑞煕の周りにぞろぞろと集まってくる。
「みん、な・・・。」
瑞煕が全員の顔を見渡して言うと、三者一様に驚愕の表情を浮かべた。
「瑞煕。喋れるのか?喉は痛まないか?」
「・・・うん。だい、じょうぶ。」
祷葵が尋ねると、うなずきながら瑞煕が笑う。初めて聞く、透き通るような瑞煕の声。まだ流暢には話せないのだろう、休み休み発せられるその音は、特に違和感を感じさせる事無く耳に入ってくる。
祷葵の両脇で、朝奈と遷己がふるふると小刻みに震えだした。不審に思って祷葵が左右に視線を送った瞬間、二人は弾かれるように飛び出した。

「瑞煕ーっ!」
「瑞煕ちゃん!」
前にも見た光景に、祷葵はやれやれ、と呆れたように笑う。あの時と違うのは、左右からぎゅうぎゅうに抱きしめられた瑞煕が小さく悲鳴をあげていることだ。
口ぐちに歓声を上げる遷己と朝奈にもみくちゃにされて、瑞煕の悲鳴はいつしか笑い声に変わっていた。鈴を転がすような声が場を一層賑やかにする。
「・・・ありがとう。遷己、兄さん。朝奈さん。」
「っ!!瑞煕が・・・瑞煕が俺の名前を・・・呼んで・・・!」
涙声になった遷己は自身の右腕を潤んだ両目に押し当てた。間髪入れずに押し殺した嗚咽が聞こえてくる。「大袈裟なのよ」と笑った朝奈の声も若干震えていた。
「・・・瑞煕。」
遠慮がちに祷葵が呼ぶと、瑞煕はすぐにその無邪気な笑顔を向けた。ベッドに一歩近付き、祷葵は瑞煕と視線を合わせるように腰をかがめる。
「私の名前も、呼んでくれないか。」
「ちょっと!ずるいぞ!」
両目から滴る雫もそのままに遷己が抗議の声を上げる。くすくすと笑いながら、瑞煕は目覚まし時計をベッドの上に置いて祷葵の手を両手でぎゅっと握った。
「ありがとう、祷葵。わたしが、喋れるのも。こうして、いられるのも、全部、祷葵のおかげ。ありがとう。」
満面の笑みを浮かべた瑞煕の瞳から、透明な雫が零れる。
喋れるようになったら、まず祷葵に伝えたかったのだ。自分を造ってくれてありがとうと。
朝奈から聞いた四年前の話で、自分の前身・・・理子は、無念の死をとげている。しかし、その意志を継いで再び現世に生を受けたこと、泉と・・・遷己と、再びこの研究所で過ごせることが嬉しいのだ。
ああ、とうなずいた祷葵の手がするりと瑞煕の手の中から抜ける。そのまま瑞煕に背を向けて、眼鏡をすこし浮かせ祷葵はその下の目を手のひらで覆い隠した。
「・・・すまない、ちょっと。」
「もー。涙もろいところは昔っから変わって無いんだから。」
目を潤ませた朝奈が、からかうような声を上げる。ようやく泣きやんだらしい遷己が、朝奈に素朴な疑問をぶつけた。
「そういえば、朝奈さんと祷葵っていつから知り合いなの?」
「あ、わたしも聞きたい。」
瑞煕も便乗して身を乗り出す。腕を組み、朝奈は虚空を睨みつけながら首をひねった。
「うーん・・・いつからなのかな?小学校か幼稚園か覚えてないや。気が付いたらいたんだよね。」
あっけらかんとして笑う朝奈とは対照的に、瑞煕と遷己は唖然としていた。やがて感激したような遷己が声を上げる。
「すげー!幼馴染だったんだ。知らなかったなぁ。祷葵のやつ何にも教えてくれないんだもん。」
「どーせ恥ずかしかったんじゃない?こんな可愛い幼馴染いるなんて知られたら何からかわれるか分からないもんね?」
つんつんと祷葵の背中をつつきながら朝奈が笑う。祷葵を一番からかっているのは自分だということにはどうやら気付いていない様子だ。あのなぁ、と溜息をつきながら祷葵が体を向ける。
「さっきから黙って聞いていれば言いたい放題言ってくれるじゃないか。」
「何よー。図星でしょ?」
「・・・まったく、お前達がいると全然話が進まないな。」
遷己と朝奈は顔を見合わせると、同時に子供のような笑みを浮かべる。そんな二人を一瞥すると、祷葵は瑞煕に向き直り本題に入った。

2.

「瑞煕。今、何時だか分かるか?」
忘れてた、という風に瑞煕は息を飲む。目覚まし時計を拾い上げると、ネコの腹を祷葵の方に向けて小首を傾げた。
「そうだ。・・・なんで?」
時刻は先程より15分ほど進んでいる。時計が止まっている、という訳ではないらしい。小さな咳払いをひとつすると、祷葵が事の経緯を説明し始めた。
「・・・実は、瑞煕が手術を受けたあの日から、もう5日経っている。瑞煕は5日間、ずっと眠り続けていたんだ。」
「・・・えっ?」
目を丸くして瑞煕が硬直する。携帯電話を開き、祷葵が表示された日付を瑞煕に見せる。12月7日・・・。間違いなく5日経っていた。ゆっくりと携帯電話から顔を上げ、瑞煕はそこにいる三人の顔を見渡した。
自分だけ5日前で時間が止まってしまっていて、何だか未来の世界へ飛ばされたような、はたまたパラレルワールドに飛んでしまったような、不思議な感覚が瑞煕を襲った。皆の顔は何故か別人のような、奇妙な5日間の壁を感じた。一通りの思考を巡らせ、瑞煕が口を開く。
「なんで・・・5日も、経ってるの?」
「あぁ。これはどうやら術後の形式らしい。手術を施してから5日間、喉は絶対安静なのだが、起きているとどうしても、ふとした瞬間に声を出してしまったり、唾を飲み込んだりということもあるだろう。5日間眠っていたほうが、確実に、安全に治療を終えることができる。」
一理ある、と納得したのか瑞煕は返す言葉もなく目覚まし時計に視線を落とした。自分が眠り続けていた5日間、ずっと時を刻み続けてきた時計を労わるように親指で撫でる。そして、はっと気付いたように部屋を見渡し、祷葵に視線を戻した。
「・・・お医者さまは?」
「鴕久地先生なら、瑞煕の手術が終わった後しばらくして帰られた。瑞煕によろしく伝えて欲しいと仰っていたよ。・・・それと、先生から瑞煕に伝言を預かっている。」
言葉を返さず、瑞煕はただ首を傾げた。一呼吸おいて、祷葵が先を続ける。
「今回の手術を鴕久地先生が行ったということは、息子さんには内緒にしておいて欲しいらしい。」
「なんで?」
「なんでもだ。」
不服そうに瑞煕が口を尖らせる。その光景は、さながら質問ばかりの幼子が、父親にたしなめられて口を噤んでいるようだった。ふふ、と笑い声を漏らして祷葵が瑞煕の頭をぽんぽんと撫でる。そして、傍らに立てかけてあった杖を手に取るとベッドから一歩離れた。
「おいで、瑞煕。昼ごはんの準備が出来てる。」
「そうだった!早く食べようぜ。瑞煕、今日の昼飯俺が作ったんだぞ。」
誇らしげに遷己が胸を張る。最初は味噌汁しか作れなかった遷己だが、最近は一通りの料理を覚えたらしい。頬笑みながら瑞煕がうなずく。
「うん。着替えてから行く。」
「オッケー。じゃあ準備して待ってるね。」
朝奈が左手の親指と人差し指で丸をつくる。皆が部屋を後にし、扉が閉まったのを確認してから瑞煕は纏っていた病衣に手をかけた。

4人で食卓を囲み、しばしの休息の時を過ごす。食後のコーヒーを啜りながら、遷己がすっかり平和ボケした口調で言う。
「しっかし、最近古斑のやつ大人しいじゃん。こないだ大層な脅しメールをよこした割には拍子抜けだよなぁ。」
「油断は禁物だぞ、遷己。今は朝奈が送りこんだ刺客でなんとか時間稼ぎが出来ているが、そろそろあっちも反撃してくる頃だろう。・・・私としても、もう決着をつけたい所だ。」
マグカップを机に置き、祷葵が小さく息を吐く。眉をひそめ、遷己が重い口を開いた。
「・・・そっか、祷葵たちはもうずっと戦い続けてきたんだよな。・・・どのくらいなんだ?4年間?」
確認するような遷己の問いに、祷葵は静かに首を横に振る。いつになく真剣な表情で朝奈が見つめる中、祷葵はゆっくりと、吐き出すように口を開いた。
「・・・・・・16年間だ。」
遷己と瑞煕が、同時に息を飲む。16年間、という途方もない歳月は、生まれてわずか5ヵ月の二人にとっておよそ想像のつかないものだった。
しん、とした空気が食堂を包み込む。誰も、何も口にしなかった。

そして、息をするのも忘れるほどの静寂の中、突然それは始まった。

四人の携帯電話が一斉にけたたましく音を立てる。四つの電子音の大合唱は、それだけでも異様な空気を醸し出していた。次々と携帯電話を開き、その小さな画面に目を止めた四人は皆、一様に驚愕の表情を浮かべる。
パタン、と携帯電話を閉じ、祷葵は一同の顔を見渡す。
「決着を・・・つける時が来たようだな。」

河拿研究所の前に、一台の赤い車が停まっている。その傍らに、祷葵と朝奈が。そして、車の前方には白衣を羽織った瑞煕と遷己の姿がある。皆、決意を固めた様な表情を浮かべて祷葵を見据えていた。
「・・・それじゃあ遷己、瑞煕。くれぐれも気をつけてくれ。」
「まかせろって!」
「祷葵と、朝奈さんも、気をつけて。」
口ぐちにそう言い、瑞煕と遷己は風のように走りだした。その背中が見えなくなるまで見送ると、祷葵は朝奈に促されるままに車に乗り込む。その上空を、白い異形が巨大な影を落として飛び去った。
「・・・いよいよ、だね。」
車を走らせながら朝奈が口を開く。その助手席で、祷葵は小さくああ、と呟いた。
眼鏡の下の瞳は、前方を見ているのかその向こうを見ているのか分からない。車道に視線を戻し、朝奈は車を更に加速させる。視界の隅に、黒き異形の影が見えた。
四年前、泉の命を奪ったあの異形と、遷己は決着をつけに行く。瑞煕は、理子の命を奪ったカヤトと、そして祷葵と朝奈は古斑と。先程四人の携帯電話を鳴らしたメールは、古斑からの二回目の宣戦布告だったのだ。
「今度こそ・・・。」
拳をぎゅっと握りしめ、祷葵が震える声を絞りだす。
「・・・今度こそ、套矢を連れて帰れるだろうか・・・。」
「なぁに弱気なこと言ってるの。大丈夫だよ、あたしもいるし、瑞煕ちゃんや遷己くんだっている。・・・これで最後だよ。やっと終わるんだ。」
祷葵の不安を吹き飛ばすかのように、朝奈は明るい口調で言葉を返した。そうだな、と笑う祷葵の声はどこか自嘲気味だ。横目で朝奈が祷葵の顔を見やると、彼はいつもの笑みを浮かべている。
一呼吸おいて、朝奈は口を開いた。
「・・・あたしはさ、凄いと思うよ、祷葵のこと。古斑と套矢にここまで冷静に向き合えるんだからさ。もし、暁良が同じことになったら、あたしは絶対に冷静じゃいられない。・・・だから、あんたは良くやってると思う。」
いつもの快活で強気な彼女からは想像つかない、しおらしい口調に祷葵は思わず朝奈を見やる。少し紅潮した頬は、暖房のせいだけではないだろう。
「・・・あたしは、祷葵のそういう所が好きだよ。」
そう言い放ち、朝奈は祷葵から顔を背ける。ふふ、と笑い声を上げ、「珍しいな」と祷葵が言えば、「懐かしい、でしょ」とぶっきらぼうな声が返ってきた。
二人を乗せた赤い車は、ひたすら真っ直ぐな道を走り続ける。やがて、人里離れた山の向こうに白い建物がその姿を現した。

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第12話 面影

1.

瑞煕と朝奈が給湯室から戻ると、祷葵と遷己の話も終わっていた様だった。暖められた部屋にコーヒーの香りが充満している。
「お帰り、二人とも。話は済んだのか?」
祷葵の問いに、まぁね。と朝奈が返す。その隣で、瑞煕と遷己は顔を見合わせた。
自分の真実を知られてしまったこと、相手の真実を知ってしまったことが何となく気恥しくてお互い視線をさまよわせていたが、やがてどちらともなく頬笑み合う。過去がどうあれ、今二人が互いにとって必要不可欠な相棒であり、家族であることに変わりはないのだ。
祷葵に向かって簡単な報告を済ませていた朝奈は、そうだ。と手を叩いて付け加える。
「祷葵、相談があるんだけど、ちょっと良い?」
「ああ、どうした?」
祷葵が耳を傾けると、朝奈は瑞煕が喋りたいと願っていることをかいつまんで説明する。その話を受けた祷葵は、腕を組んで真剣な表情で唸り出した。
「・・・そうだな。私も何とかしたいとは思うのだが、何せ専門外なものでな。理子だった時の記憶が無い今もなお、喋れないままだということは最早精神的なものだけが原因ではないだろう。そうなるとますます手が出せない。」
瑞煕の顔が不安げにくもる。祷葵でも無理となると、自分は一生このまま喋れないままなのだろうか。押し潰されそうになる胸をぎゅっと押さえて目を伏せる。しばし考え込んでいた朝奈が思い出したように声をあげた。
「理子が入院してた時の、あのお医者さまは?あの時は精神的なものだったから、って事でしばらく様子見だったし、治療する前に理子も亡くなっちゃったから・・・。今だった何か手立てがあるかも。」
その言葉に、祷葵も納得したようだ。二度、三度とうなずいて同意の弁を述べる。
「それは良い案だ。あの方はこの町で一番腕の立つ先生だからな。私も良く世話になっている。早速連絡してみよう。」
そう言い残し、祷葵は杖をついて立ち上がる。通りすがりに瑞煕の頭をぽん、と撫でてそのまま部屋を後にした。良かったね。と朝奈が声をかけたが、瑞煕は期待と不安でごっちゃになり曖昧な反応しか返せない。
しばらくすると、携帯電話を片手に祷葵が廊下から姿を現した。開口一番に瑞煕に問いかける。
「瑞煕。明日来てくださるようだ。学校を休んでもらうことになるが、構わないか?」
しばしのためらいのあと、瑞煕はゆっくりとうなずく。どのみち、喋れない状態のまま、誤解を解けないまま閨登に会うのも心苦しかった。そうか、とだけ返し祷葵は電話の向こうの主に会話を戻す。よろしく頼みます、と話を閉めて祷葵は携帯電話を切った。すかさず朝奈が口を開く。
「どうだった?」
「ああ、引き受けてくださるようだ。治療する方法もあるらしい。明日の午後一番にここに見える。」
治るの?と三人同時に聞いていた。少し気押されながらも、祷葵は微笑んであぁ、とうなずく。
部屋の中がぱぁっと明るくなる。朝奈と遷己が両手を掲げて歓声をあげた。
「やったーー!!良かったね、瑞煕ちゃん!」
「瑞煕良かったな!治るんだぞ!」
右から朝奈が、左から遷己が瑞煕の体に腕を回す。両側からぎゅうぎゅうに抱きしめられて目をぱちくりさせていた瑞煕も、次第に状況が飲み込めたらしく顔を輝かせた。満面の笑みで何度も何度もうなずく。その様子を見ていた祷葵も、微笑ましそうに頬を緩めた。

長い一日が終わり、瑞煕と遷己が各々の部屋に戻ったのは日付が変わる頃だった。しん、と静まり返った研究所に、温かい余韻が残っている。
灯りのついた所長室に、祷葵と朝奈の姿があった。お互い白衣を脱ぎ、暖められた室内にはゆっくりとした空気が流れている。瑞煕と遷己に真実を伝えて肩の荷が下りたのだろう、祷葵はいつにも増して穏やかな表情を浮かべていた。
「瑞煕ちゃんと遷己くん、ちゃんと受け入れてくれて良かったね。」
ほっとしたような声で朝奈が言う。あぁ、と同意して祷葵も安心したような笑みを浮かべた。
遷己の方はひと悶着あったが、それは言わない方が彼のためだろう。話題を逸らすために、祷葵は少し笑みを含んだ声で口を開いた。
「・・・それにしても、朝奈とこうしてゆっくり話すのも久しぶりだな。」
何回か電話でやりとりはしていたものの、直接会って話すのは朝奈が異動してから初めてだった。三年半の時を振り返って、朝奈が声を荒げる。
「ホントだよ!この三年半、あたしがどれだけ・・・。」
「どれだけ・・・何だ?」
「・・・なんでもない。」
不機嫌そうに口を尖らせ、顔を赤らめた朝奈がそっぽを向く。ぶっきらぼうに放たれた言葉に、祷葵は訝しげな表情で首を傾げた。
賑やかな夜が更けてゆく。やがて、白い柔らかな光が研究所を淡く包み始めた。

翌日、瑞煕は朝からそわそわとせわしない様子だった。無理もない、この日悲願が叶うともあれば落ち着いてはいられないだろう。
部屋の掃除をしてみたり、風呂に入ってみたり、研究所をうろうろと歩き回ってみたり。そうして過ぎてゆく時間は、瑞煕にとって酷くもどかしく、ゆっくりとしたものだった。
やがて、時計の針は瑞煕が一番待ち望んだ時刻を指し示す。待ち人を迎えに祷葵が玄関へと出向く。間もなく、応接室で待機していた瑞煕のもとへ祷葵が一人の男を連れて戻ってきた。その場にいた遷己、朝奈も一様に男に注目する。
栗色の髪をしたその男は、毅然とした表情で一同を見渡した。祷葵が瑞煕に向き直り、男の紹介に入る。
「瑞煕。こちらが今日瑞煕を診てくださる鴕久地先生だ。」
「はじめまして。私が瑞煕さんの治療を担当させて頂く鴕久地庄吾です。よろしくお願いします。」
丁寧な口調でそう告げると、庄吾は瑞煕に向かって一礼する。朝奈もすかさず礼を返すが、瑞煕と遷己は聞き覚えのある名字に気をとられ、ひとつタイミングがずれた。
顔をあげた瑞煕に庄吾が名刺を手渡す。その名刺に視線を落とし、瑞煕は息を飲んで目を見開いた。後ろから名刺を覗き込んだ遷己も同様のリアクションを示す。聞き覚えのある名字だけではなく、見覚えのある名字でもあったのだ。
「・・・もしかして閨登くんの・・・?」
思わず遷己はそんな質問を口にしていた。はっとした表情で瑞煕が遷己を見やり、続いて庄吾に視線を移す。ああ、と驚いたような声を漏らして庄吾は笑顔を浮かべた。
「驚いた。息子のことを知っているのですか?」
「はい。妹が閨登くんと同じクラスで、仲良くしてもらってるみたいなんです。俺も何度か会ったことありますよ。」
瑞煕の肩に手を置いて遷己が説明する。これには祷葵も初耳だ、とばかりに目を丸くした。朝奈も興味深さそうに笑みを浮かべながら瑞煕を見やる。様々な視線をあちこちから感じ、瑞煕は頬を赤らめて小さく、俯くようにうなずいた。やがて、合点がいったという風に庄吾が声をあげる。

2.

「息子のクラスに転入してきた生徒というのは、あなただったんですね。道理で聞いたことのある名前だと思いました。」
「瑞煕のこと、知ってたんですか?」
やりとりを見ていた祷葵が口を開く。庄吾は祷葵に体を向けるといえ、と首を振った。
「学校からのお知らせプリントに書いてあったんですよ。息子の友達ならば、気合いを入れて治療しないといけないですね。」
祷葵より大分歳が上であろう庄吾の口から、「お知らせプリント」という似つかわしくない単語が出てきたことが妙に微笑ましくて、その場にいる皆の頬がゆるんだ。毅然とした態度と、丁寧な口調はたまに冷たい印象を放つが、やはり庄吾も人の親なのだと実感する。数分の談笑を終えると庄吾は早速瑞煕の診察に入った。
瑞煕の体調や過去の病歴をなどの簡単な質問を繰り返し、瑞煕はそれに対して首を振って答える。そして、瑞煕の喉の奥をライトで照らし、最後に体温を測って診察は終了した。うんうん、と頷いて庄吾はカルテから顔をあげる。
「問題ないですね。このまま手術にうつりましょう。祷葵さん、無菌室を貸して頂けますか?」
「ああ。用意してますよ。」
なんてことのないような、涼しい顔で交わされた会話だったが、瑞煕を仰天させるのには十分だった。治療とは聞いていたが、よもや即日手術など思うわけもなく、瑞煕の不安が一気に募る。
今にも泣き出しそうな顔の瑞煕を見て、庄吾がなだめるように笑った。
「大丈夫ですよ。手術といっても簡単なもので、瑞煕さんが声を出すためのちょっとしたお手伝いをするだけです。すぐに終わりますし、体への負担もないですよ。」
庄吾の顔を、瑞煕はガラス玉のような瞳でじっと見つめる。そうやって自分を落ち着かせる声のトーンや笑顔が、閨登ととてもよく似ている。確かな血の繋がりを感じて、瑞煕は昨日会ったはずの閨登の顔が懐かしく感じた。こくり、とうなずく瑞煕を見て、庄吾は安心して笑い、祷葵と連れ立って応接室を後にした。体中の力が一気に抜け、瑞煕はへなへなとソファーに崩れ落ちる。
その隣に腰を下ろした遷己が、心配そうな表情を朝奈に向ける。
「な、なぁ朝奈さん。大丈夫なのか?手術って、ここでやんの?」
「だぁいじょーぶよ。あのお医者様のことは、あたし達も信頼してるし、ここの事も良く知ってる。それに、ここは生物学の研究所なんだ。無菌室くらいあるよ。」
笑いながら朝奈が答える。緊張と不安を隠せない様子の瑞煕も、覚悟を決めたようだ。静かに息を吐いてその時を待つ。やがて応接室に向けてゆっくりと足音が近付き、瑞煕の鼓動が跳ね上がった。扉が開かれ、廊下から庄吾が姿を現す。
こちらへ、と促され瑞煕は腰をあげる。そして、遷己と朝奈に向き直ってうなずいてみせると、庄吾に続いて部屋を後にした。ひんやりとした廊下の空気が、瑞煕の体を更に強張らせる。
瑞煕と歩幅を合わせ、ゆっくりと廊下を進みながら庄吾が口を開いた。
「瑞煕さん。息子は・・・閨登は、学校ではどんな様子ですか。元気でやっていますか?」
その言葉に、瑞煕は顔をあげる。小さく頬笑みを浮かべている庄吾と目が合った。父親として純粋に気になるところなのだろう。瑞煕も微笑んでしっかりとうなずく。そうですか。と庄吾は安堵の息を吐き、そしてやや自嘲気味にぽつり、ぽつりと話し始めた。
「・・・私は、家ではほとんど息子と会話をしません。厳しく育てすぎたんでしょうね、あの子はすっかり怯えきってしまって。・・・だから、息子の友達に会うのもこれが初めてなんですよ。」
その話に、瑞煕は訝しげに眉をひそめた。確かに少々冷たい印象を受けるものの、話していくうちに庄吾の優しさというものを十分に感じ取れた。親子間の不仲に悩むほどの、厳しい教育をしている姿が想像つかない。深刻な表情で、心配そうに眉をひそめて押し黙っている瑞煕を見て、庄吾が笑いながら話を続ける。
「・・・でもね、最近息子が何だか明るくなった気がするんですよ。丁度、瑞煕さんが転入してきたあたりからかな。こんな可愛らしいお友達が出来たなんて、私も安心しました。」
そう言って庄吾は足を止め、瑞煕に体に向ける。小首を傾げて瑞煕が見上げると、庄吾は、瑞煕もよく知っている柔らかい笑顔を浮かべた。
「・・・瑞煕さん。これからも閨登と仲良くしてやってください。よろしくお願いします。」
その言葉に対する瑞煕の反応に迷いはなかった。笑顔で庄吾の目をしっかりと見つめ返してうなずき、両手でガッツポーズを作る。ありがとうございます、と庄吾が笑い二人は廊下の真ん中でしばし笑顔を交わした。

やがて、廊下の先に「無菌室」と書かれたプレートが姿を現した。この辺りに来るのは瑞煕も初めてらしく、もの珍しそうに周りを見渡す。鈍色の大きな二枚の扉を、庄吾は何のためらいもなく押しあける。観音開きに開かれた視界の先に、白い空間が広がっていた。
純白のロッカーと仕切りに使うのだろうカーテンが左右にいくつも並び、その奥にもう一つ大きな扉が待ちかまえている。扉の中心に取り付けられた窓から見えるその先には、白い霧のようなものが立ち込めていた。呆然とする瑞煕に、庄吾が声をかける。
「では瑞煕さん、一番ロッカーの中に服がありますから、それに着替えて中に来てください。」
そう告げて庄吾は先に扉を開け、白い霧の中へと消えてゆく。一人取り残された瑞煕は少し不安そうに眉をひそめ、周りをキョロキョロと見渡しながら一番ロッカーを探した。
ロッカーの中には、薄水色の浴衣のようなものが綺麗に畳んで入っていた。それを掴んで広げてみると、左胸の部分に病院名が刺繍されてある。病衣だ、と気付くと今から始まることが現実感を増す。ごくりと唾を飲み込み、瑞煕は恐る恐る着替え始めた。
白い霧をくぐった先にはまた扉があり、それを押しあけると今までとはうってかわった冷たい部屋に出た。天井も壁も床も真っ白なのは今までにも見てきたのだが、天井から吊り下げられた大きなビニールカーテンや部屋に並べられた長方形の台。モニターや機械が乱雑に置かれ、部屋全体から発せられる空気が瑞煕の胸をざわざわと撫で上げた。ひとつの台の傍で、二人の手術着をまとった人物が瑞煕に注目していた。帽子の中に髪をまとめ、マスクをしていて一見判断に迷ったが、すぐにそれが祷葵と庄吾だと気付く。
「瑞煕。こっちにおいで。」
安心させるように、祷葵が柔らかい声で瑞煕を呼ぶ。うなずいて瑞煕はゆっくりと二人に近付いた。
その台は、庄吾が持ってきたのだろう手術器具に囲まれ、他とは違った異様な雰囲気を醸し出している。何もかも見たことの無いもので、瑞煕はひとつひとつ視線を這わせた。しかし、それも庄吾の一言であえなく打ち切られる。
「それでは、スリッパを脱いでこの台に横になってください。」
言われるままに台に腰を下して体を倒す。自分を見下ろす天井と照明、そして祷葵と庄吾の顔があった。大丈夫だ、と言う風に祷葵はうなずく。マスクで表情は読み取れないが、眼鏡の奥の瞳は笑っているようだった。その反対側で庄吾が手術の準備を始める。

やがて、瑞煕の視界は白くかすみ始める。そしてそのまま、意識は混濁の中へと落ちていった。

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第11話 四年前 side.M&S

side.M

甘いココアの香りが胸を満たす。さっきまであんなに霞がかっていた脳は、朝奈の話を一言一句聞き漏らすまいとフル回転している。
瞬きも忘れるほどの緊張感の中、朝奈が口を開いた。
「・・・瑞煕ちゃんが言葉を持たないのは、四年前のある事件が原因なんだ。単刀直入に言うと、瑞煕ちゃんは梶浦理子、という子から造られたクローンの人間。そして、その梶浦理子は四年前に声を失っている。」
瑞煕の耳に、聞き覚えのある名前が飛び込んでくる。梶浦理子・・・。カヤトと名乗った男が、何度も自分をその名前で呼んでいた。それも、自分が理子のクローンなら納得がいく。
瑞煕がうなずくのを見て、朝奈は話を続けた。
「・・・理子は今から六年前、天根泉と一緒にこの河拿研究所で働き始めた若い研究員だった。あたしも祷葵も、二人のことがすごい可愛くてさ。本当の弟や妹みたいに思ってたもんさ。そして、二人が研究所に来てから二年後・・・今から四年前、理子に恋人が出来たんだ。」
四年前。理子の恋人。この二つから連想される人物はただ一人だった。「月島カヤト」、瑞煕の脳裏に黒髪の男の顔が浮かんだ。
「瑞煕ちゃん、月島カヤトを知ってるの?」
目を丸くして朝奈が問う。いつの間にか口が動いていたらしい。瑞煕は頷き、帰宅途中でカヤトと会ったことを伝えた。深刻な顔で朝奈が唸る。
「やっぱり・・・。古斑が何かアクションを起こすなら、まず瑞煕ちゃんを狙うに決まってる。四年前もそうだった。古斑は最初に理子を狙ったんだ。理子と恋人関係になったカヤトは、ある日でかけたドライブで、大きな事故を起こして・・・理子を殺そうとした。最初から、そのつもりで理子に近づいたんだ。」
マグカップを握る朝奈の手にぎゅっ、と力がこもる。月島カヤトに対する怒りが蘇ったのだろう、声もかすかに震えていた。自身を落ち着かせるために大きく息を吐き、先を続ける。
「病院で理子は全部知った。月島が自分に近付いた本当の理由。事故が起こった理由。・・・そして、その日から理子は声を失った。お医者様も、精神的に強いショックを受けたからとしか言わなかった。・・・理子はどんどん衰弱していって、そのまま・・・。・・・瑞煕ちゃんが喋れないのは、言葉を失った理子から造られたから。喋り方を知らないからかもね。」
瑞煕は眉をひそめてその話をじっと聞いていた。カヤトが自分に行った数々の許されざる行為。そんな事をしでかしておきながら、あんな飄々とした態度で再び瑞煕に近付いたのだ。瑞煕の心の中に、カヤトに対する憎しみがふつふつと湧き上がる。それは朝奈も同じだった。怒りに震えるその声は、古斑を摘発するようでもあった。
「理子が入院してすぐくらいだった。古斑が研究所に、あの黒い化け物を送り込んできたんだ。あたしも祷葵も、あんな化け物を見るのは初めてで、何も太刀打ちできやしなかった。・・・そして、あの化け物は泉の・・・。泉の命を奪って、満足そうに帰って行った。
・・・古斑は、どうしたら祷葵が一番傷つくか、一番追い詰められるのか良く知っていたね。だから祷葵が大切にしていたものを・・・理子と泉を奪ったんだ。」

まくしたてるように一気に言いきり、朝奈は再び長い息を吐く。小さく震えている朝奈の様子を見ていると、彼女も祷葵と同じように理子と泉のことを大事に想っていたということが窺える。
次に口を開いた朝奈は、物憂げな表情で目を伏せていた。
「・・・死んだ人間のクローンを作るなんて、正気の沙汰とは思えないけど・・・。泉が、もう一度理子と一緒にここで働きたいって言ったのを聞いて、祷葵の迷いも消えたみたいだね。もともと、生物のクローンについて研究していた祷葵とあたしは、早速理子と泉のクローンを作ることにした。もちろん、それを知った古斑も必死で妨害してきた。だから、祷葵はあたしたち研究員を全員他の研究所に避難させて・・・そして、一人でずっと理子と泉のクローンを…瑞煕ちゃんと、遷己くんを守り抜いてきたんだ。」
瑞煕の中で、大きなパズルが完成したようなそんな感覚がした。
自分たちが作られた理由、自分たちの真実。この研究所の真実。瑞煕の知りたかった事が、次々と情報として入ってくる。

すっぽりと抜けていた瑞煕の記憶が、過去が、朝奈から放たれた言葉で埋まってゆく。それはもともと瑞煕の一部だったかのように、綺麗に彼女の中に収まった。
瑞煕の心の中が、温かいもので満たされてゆく。朝奈の口から語られた真実はどれも衝撃的なものではあったが、それ以上に真実を知る事が出来た喜びのほうが大きかった。
朝奈の目を真っ直ぐに見て、瑞煕は柔和な笑みを浮かべる。「ありがとう」と口を動かすと、朝奈もふふ、と笑い声を漏らした。
「強い子だね、瑞煕ちゃんは。でもまだ根本的な問題が残ってるよ。どうやったら瑞煕ちゃんが喋れるようになるのか、それを考えなきゃね。」
忘れてた、と言わんばかりに瑞煕がぽんと手を叩き、首をひねる。精神的なショックから喋れなくなったのなら、何かのきっかけで再び声を取り戻すかもしれない。同じように考え込んでいた朝奈も、お手上げといった風に肩をすくめた。
「駄目だぁ。あたしも医者じゃないからこういうのは専門外だよ。あとで祷葵に相談してみよっか。・・・あたしも応援するよ、瑞煕ちゃんの恋。」
頬を赤く染めてはにかんだように笑い、瑞煕も小さくうなずいた。朝奈に頭をなでられ、胸の中がくすぐったくなる。いたずらっぽく笑いながら、朝奈が身を乗り出した。
「ねぇねぇ、瑞煕ちゃんの好きな人ってどんな感じの子なの?」
耳まで赤くして、瑞煕が目を見開く。両手で頬を押さえるとさっきまで握っていたマグカップにも負けないほどの顔の熱を感じた。どんな感じ、と言われ真っ先に頭に浮かんだ言葉を朝奈に伝える。
「優しい、かぁ。やっぱそれが一番大事だと思うよ。良いなぁ、どんな子なんだろ?うまく行ったら今度紹介してね!」
その言葉に、瑞煕はおずおずとうんずいた。うまく行く、という確信も自信も無いためハッキリとした反応を返すことができない。好きな人に、想いを伝える。でも伝えるのは想いだけでは無いのだ。瑞煕の過去も、真実も全て伝えて、それでもなお受け入れてくれるという自信が無い。信じたいのに信じきれない、臆病な自分が歯がゆくて瑞煕は一瞬表情を曇らせる。そんな瑞煕の頭をぽんぽんと優しく叩き、朝奈はココアを飲み干す。大丈夫だよ、とそう言ってくれているような気がして瑞煕も微笑む。
「じゃあ、祷葵たちの所に戻ろっか。あっちも多分話が終わった頃でしょ。」
瑞煕も笑顔で同意する。廊下を歩く朝奈の横顔を見上げながら、瑞煕は自分の中に溢れ出る温かいものを感じていた。初対面のはずの朝奈に、ここまですんなりと心を開けたこと。恋愛の話をするときの、いたずらっぽく笑う朝奈の顔が、何だか懐かしく感じたこと。自分の中に確かに理子がいることを瑞煕は感じていた。
四年前も、自分はこうやって朝奈といろんな話をしたのだろう。太陽のように笑う彼女が大好きだったのだろう。

パタパタと廊下を蹴りながら、瑞煕は満面の笑みを浮かべた。

side.S

部屋にコーヒーの芳しい匂いが立ち込める。白いマグカップをそっと机に置き、祷葵は息を吐いた。遷己もそわそわとコーヒーを啜りながら、時折瑞煕が出て行った扉を心配そうに見つめている。涙など滅多に見せない彼女が、あそこまで泣き腫らしていたのだ。よっぽどの事があったのだろう。
「・・・なぁ祷葵。瑞煕のやつ大丈夫かな。何があったんだろ?」
なかなか話し出そうとしない祷葵に痺れを切らしたのか、遷己が先を促すように口を開いた。少し考え込むようなそぶりを見せた後、祷葵はようやく重たい口を開く。
「・・・今日、私と朝奈に古斑から一通のメールが届いた。四年前のおさらいをしよう、とそれだけ書いてあるメールがな。瑞煕の身に何かあったのだとしたら、おそらくそのメールと関わりがあるだろう。」
「四年前の・・・おさらい?」
訝しげに遷己が眉をひそめる。四年前、自分たちはまだ存在していない。それなのに、その四年前のおさらいとやらにどうやら自分達は深く関係しているらしい。
ひと呼吸おいて、祷葵は話を続けた。
「・・・天根泉。それが四年前の、お前の名前だ。一度は看板を失った河拿研究所が、再び動き出したのは私が二十歳の時だった。その時に入ってきた研究員が天根泉と梶浦理子・・・お前と、瑞煕だ。」
そこで祷葵は言葉を切る。遷己はただ、その話を黙って聞いていた。言葉が出なかった、といった方が正しいかもしれない。祷葵の話はあまりにも現実味にかけ、ふわふわとしていて実感がない。しかし、自分の本当の名前が天根泉だと、瑞煕の本当の名前が梶浦理子だと言われた時。聞き覚えの無い名前のはずなのに何故かひどく懐かしく感じた。この既視感のようなものを、五か月前に祷葵に対して抱いていたことを遷己は思い出していた。
「・・・泉と理子は、若いながらにとても良く働いてくれた優秀な研究員だった。私にとって二人は本当の弟と妹のように思えた。河拿研究所にとって、私にとってかけがえのない存在になっていたんだ。・・・だが、四年前。泉と理子の存在が邪魔になった古斑が遂に行動に出た。」
言いにくそうにそこで口をつぐみ、祷葵は震える息を吐いて目を伏せた。遷己も依然、貝のように押し黙ったままだ。祷葵に話の先を促すには、沈黙が一番効果があることを知っているのだろう。そしてその期待通り、祷葵は言葉を探しながらゆっくりと口を開いた。
「・・・最初に、古斑が狙ったのは理子だった。古斑は月島カヤトという男を使って、理子をたぶらかした。・・・月島と恋人関係になった理子は、ある日車でドライブに出かけ、そこでヤツは車が大破するほどの事故を起こした。もちろん、わざとだ。古斑は、理子を消すために・・・。」
祷葵の手が震えている。声が震えている。
当時の事を思い出したのだろう。その痛みに耐えるように祷葵は目を閉じた。こんな状態の祷葵に話の続きを促すのは酷なことのように思えた。しかし、遷己は依然として沈黙を貫いている。
続きは容易に想像できた。そして、聞きたくなかった。しかし遷己は知らなければならない。四年前何があったのかを。瑞煕の、自分の真実を。
しばらくの沈黙の後、祷葵は震える声で続けた。
「・・・理子は、大怪我を負った。あいつは救急車が到着するまでのあいだ、ずっと月島の怪我の手当てをして励まして・・・。助かるはずだった理子の怪我も、救急が来た時には既に致命傷だった。月島の真意を知った理子は、事故のショックも相まって声を失った。病院のベッドの上で理子は段々衰弱して、そして・・・もう助からなかった。」
「っ・・・!!」

思わず息をのむ。瑞煕の前身である理子が、もう既にこの世にはいない。ならば瑞煕は何者なのだろうか?目を見開いて祷葵の話の続きに耳を傾ける。
「・・・理子が入院したすぐ後に、古斑は次の刺客を送り込んだ。・・・それがあの古斑のペットだ。」
黒き異形の姿が遷己の脳裏に浮かんだ。理子の末路を知った後では、次に語られる事が嫌でも想像できてしまう。ぐっ、と力をこめて両手を握りしめ、遷己は次の言葉を待った。
「古斑のペットがこの研究所に攻め込んできたとき、私たちは何も出来なかった。何せ、あんな怪物を見るのは初めてだったからな。・・・ヤツの狙いは泉だった。・・・どうすることも、出来なかった。」
直接的に言わなくとも、祷葵の言葉の随所から当時の光景がよみがえるようだった。そして、自分の末路が・・・四年前の自分自身である「泉」がどうなったのか察して遷己の手が震える。
「・・・泉は最期に、理子ともう一度この研究所で働きたいと、そう言ってくれた。もちろん私も同じ気持ちだった。泉と理子を同時に奪われて、古斑に対する憎しみも募った。・・・このまま引き下がっては二人の死が無駄になってしまう。…だから、私は二人のクローンを作ることにしたんだ。」
「・・・。」
遷己の口は固く閉ざされている。しかし、話の先を促すためではない。答えが見えてしまって言葉がでないのだ。衝撃的な真実に、頭の回転がついていかないのだ。優秀だと言われた泉に比べて、自分の頭は相当出来が悪いらしい。目を見開いたまま遷己が黙りこんでいると、祷葵が重々しい口調で話を続ける。まるで自身の胸の内をすべて吐き出すようだった。

「・・・この四年間で、泉と理子のクローンは立派に成長した。もちろん、その間も古斑の襲撃は続いた。この脚も、古斑の異形にやられたものだ。・・・私自身はすでに太刀打ち出来なくなってしまっていた。このままでは四年前の繰り返し。だから私は、泉と理子のクローンに、身を守るための術を与えた。もう二度と、死なせないために。…兄弟を失うのは、もうたくさんだった・・・。そして目覚めたのが遷己と瑞煕。お前たちだ。」
祷葵の言葉が、ゆっくりと遷己の中に入ってゆく。話を最初から反芻し、徐々に吸収してゆく。
そして祷葵の話がすべて理解できた瞬間、遷己の胸の中の霧が晴れ渡った。
遷己は覚えていなくても、遷己の中の天根泉が覚えていたのだ。研究所のこと、祷葵のこと、瑞煕のことを。
最初、腕を変形させられて戦ってほしいと言われた時、瑞煕がすんなりと受け入れていた理由。あれもおそらく瑞煕の中の理子が頷いたのだろう。そして、自分が感じた祷葵に対する恩のようなもの。初対面のはずなのに、何故か恩返しをしなければならないような、駆り立てられる気持ち。あれは、自分が死に際に伝えた願いを、祷葵が叶えたから。それに対して泉が感謝の念を抱いたのだろう。だから、遷己自身も祷葵を受け入れられたのだろう。
「・・・祷葵、ありがとな。」
気付いたらそう言っていた。祷葵がゆっくりと顔をあげる。精神的に辛い話を長々と話していたからだろう、祷葵の顔からは疲労の色が窺えた。そんな祷葵を労うように、遷己は静かな笑みを浮かべた。
「・・・俺も瑞煕も、ずっと自分が何者なのか知りたかった。ただ造られただけ、って訳でもなさそうだったし、祷葵も何か隠している感じだったしさ。…だから、話してくれてありがとう。」
「・・・遷己・・・。」
少しほっとしたような声で、祷葵が声を漏らす。うん、と頷いて遷己は困ったように眉をひそめた。
「そう。俺は遷己だ。泉じゃない。・・・瑞煕みたいに祷葵の研究だって手伝えないし、泉だった時のことも全然覚えてない。・・・泉の代わりにだって、なれないかもしれない。・・・俺、失敗作なのかな?・・・ごめんな。」

遷己の目から涙が一粒、二粒とこぼれ落ちる。何故こんな自虐的な気持ちになるのだろう、胸がギリギリと痛む。謝罪の言葉が止まらず、遷己は顔を伏せた。
祷葵の研究を手伝っている瑞煕を見て、何も出来ない自分がもどかしく感じていたのかもしれない。ずっとずっと、自分は落ちこぼれなのだと心のどこかで責めていたのかもしれない。そして、祷葵が優秀だと語った、自分の前身である「天根泉」。優秀な研究員を取り戻したくてクローンを作ったのなら、さぞかし落胆しただろう。今まで遷己が抱え込んできた自責の念の、その器を決壊させる最後の一滴がこの四年前の話だったのだ。
ぎし、と音が鳴る。スリッパが床を擦る音がゆっくり遷己へと近付く。遷己が顔をあげると同時に、その体は祷葵の胸の中にしっかりと抱きとめられていた。遷己の背中と頭に祷葵の手が回され、苦しいくらい力強く抱きしめられる。遷己の頭のすぐ上で、震える祷葵の声がした。
「・・・何言っているんだ。いくらクローンでも、お前と泉がまったく別の人間なのは当たり前だ。死んだ人間を生き返らせたわけではないのだからな。・・・だから、そんな事気にしなくていい。私はお前たちに、泉と理子が生きられなかった人生の続きを生きて欲しいんだ。もちろん、遷己と瑞煕として。・・・泉は泉で、遷己は遷己だ。お前に、泉の代わりをさせるつもりは無い。・・・だから、もう泣くな。辛い思いをさせてすまなかった。」
ぎゅう、と祷葵の腕に力がこもる。遷己の胸の中でがちがちに絡まったいくつもの糸を、ひとつひとつ解かれるような感覚だった。最後の糸を解くように、遷己が恐る恐る口を開いた。
「・・・俺、このままでいいの?・・・これからも、ここにいていいのかな。」
「あぁ、もちろんだ。お前は、私の大事な家族だからな。」
「俺、頭悪いから祷葵の研究とか手伝えないよ?」
「構わない。言っただろう、泉の代わりをする必要はない。自分で道を選び、好きな様に生きて欲しい。・・・もちろん、古斑と決着がついてからな。」
小さい子どもをあやすように、遷己の背中をぽんぽんと叩きながら祷葵が笑う。
それにつられて、遷己もようやく安心したような笑みを浮かべた。

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第10話 告白の始まり

1.

・・・つめたい。頭も、顔も、手も、足も、胸も全身が凍りついて何も考えられない。
目前に迫るカヤトの手や、自分を守るような閨登の腕が全て現実離れして見えた。スローモーションで過ぎてゆく光景。何も聞こえず、視界は白に染まってゆく。
緊迫した空気を打ち破って、けたたましい電子音が鳴り響いた。ガン、と軽く頭を殴られるような錯覚とともに、霧に埋もれかかった瑞煕の意識が現実に引き戻される。軽く舌打ちをし、カヤトは瑞煕に伸ばしていた腕をそのままポケットにスライドさせる。二人を一瞥した後、カヤトは携帯電話を耳に押し当てた。
「・・・俺だ。」
不機嫌そうなカヤトの口から不機嫌そうな声が漏れる。しばしの沈黙の後、カヤトの顔がみるみる険しくなった。その表情からは若干の焦りさえ感じられる。すぐ戻る旨を伝え、カヤトは携帯電話を閉じる。そして、未だ呆然と動けないでいる瑞煕と閨登に向き直るとふん、と鼻で笑って見せた。
「運の良いやつらだねぇ。ま、良いか。またね、理子。カレシくんも。」
人の良い笑顔を浮かべ、カヤトは踵を返して瑞煕と閨登に背を向けた。ひらひらと背中越しに手を振りつつ去ってゆく。カヤトの姿が完全に見えなくなると同時に、瑞煕の緊張の糸が一気にほどけた。全身の力が抜けてひざから崩れ落ちそうになった瑞煕の身体を閨登が慌てて支えた。
「河拿さん!大丈夫?」
なんとか小さくうなずいて見せるも、瑞煕の身体は小刻みに震えて止まらない。
「元」梶浦理子、と自分を呼んでいた男。自分も知らない自分の過去を、よりにもよって一番知られたくない人物に聞かれてしまった。
カヤトの口から放たれた言葉が全て頭をぐるぐると駆け巡る。明瞭になった思考に、それはあまりにも重すぎた。理解できない、抱えきれない、気持ち悪い、もう何も考えたくない。
髪の毛をくしゃくしゃにかきあげ、頭を抱えて瑞煕は声は声にならない叫びをあげた。

すっかり太陽の恩恵を受けなくなってしまった山道は薄暗く、俯いたままの瑞煕の顔に更に深い影を落としていた。心配そうに時折瑞煕の方を見ながら、閨登がその隣をゆっくりと、歩幅を合わせて歩く。
瑞煕の背中には、ためらいがちな閨登の掌がそっと添えられていた。ほんの少しの力でも、背中を押すのを止めてしまえば瑞煕の足はそこから前に進まなくなってしまうのを、閨登はこの道中で学んでいた。
交差点に差し掛かるたびに、その先の道を尋ねれば瑞煕はわずかな反応を示す。しかし、それ以外はずっと下を向き、閨登に促されるまま歩く人形のようになっていた。
無理もない、と閨登は思う。先ほどのひどく怯え、取り乱していた瑞煕の様子を見ている限り、大分精神を消耗しているようだ。あのカヤトという男が言っていたこと、瑞煕の過去が気にならないと言ったら嘘になる。しかし、今の彼女からそれを聞き出すのはあまりにも酷だ。
とりあえず今は身体を休ませ、落ち着かせるのが先だと、閨登は坂の上を見やった。
銀色のプレートを掲げた門が見える。その後ろに、白い大きな建物が緑の蔦に守られるようにして鎮座している。話には聞いていたが、実際目の当たりにするとかなりの迫力だ。
門の前に差し掛かるところで、閨登は瑞煕に、出来るだけ優しくそっと声をかけた。
「ほら、もう着いたよ。」
その言葉に、瑞煕はゆっくりと顔を上げた。見慣れた研究所と、優しく微笑む閨登の顔が視界にうつる。胸の中から、抑えきれない何かがこみあげてくるのを感じた。
ぽろ、と瑞煕の瞳から透明な雫がひとつ零れた。それを皮切りに、次々と両の目から大粒の涙があふれ出す。ぎょっとした顔で、閨登は慌てて口を開いた。
「ど、どうしたの?大丈夫?」
おろおろと言葉を探す閨登を横目に、瑞煕は携帯電話を取り出した。溢れだす涙もそのままに、両手で携帯に文字を打ち込む。その様子をじっと見ていた閨登を眼前に、やがてひとつの文章が差し出された。震える手に合わせて小刻みに揺れるその一文を読み取り、閨登の顔色がみるみるうちに変わる。

『わたしのこと、気味悪いとか、おもわないの?』

その一文は、泣いている瑞煕の顔とも相まって酷く自虐的なものに感じ取れた。
瑞煕が今一番知りたくて、一番知るのが怖いその答えを閨登の口から語られるのをじっと待つ。
携帯電話を下げる腕と共に、瑞煕の顔も下を向いた。閨登の顔を見るのが怖い。
むっとした表情で眉をひそめ、閨登は口を開いた。
「・・・そんなこと、思うわけない。」
声が震えている。恐る恐る顔を上げると、少し怒っているような閨登と目が合った。声を荒げて閨登が続ける。
「好きな子のこと、気味悪いとか思うわけないだろ!」
その言葉に、瑞煕はビクッと身体を震わせた。今まで聞いたことのないような声量と口調で、怒りを露にしている閨登を見て胸が押し潰されそうになる。怯えている表情の瑞煕を見ると、閨登は悲しげに目を伏せる。さっきとはうってかわり、その顔は今にも泣きだしそうだった。
「・・・僕は、河拿さんのことが好きだ。好きだから、そばにいたいしたくさん話がしたい。・・・嫌われたって思った時はすごく辛くて、いてもたってもいられなくて・・・。」
それで今日、昼休みに声をかけたのだろうと瑞煕は言葉の続きを読み取った。冷たくなった身体に熱が戻る。しかし、頭は時が止まったかのように凍りついたままだ。もどかしいほどゆっくりと、焦らすようにゆっくりと、閨登の言葉を飲み込んでゆく。
固まったまま動けないでいる瑞煕を見て、閨登が溜息混じりに言葉を続ける。
「・・・ごめん、いきなりこんな事言われてびっくりしたよね。ただでさえ、色んなことがあって疲れてるし、頭も混乱してるでしょ?はぁ・・・ごめん、ほんと・・・。」
自分自身を責めるような深い息を吐いて、閨登は頭をくしゃくしゃにかきあげた。眉をひそめて目を伏せ、もう一度小さく息を吐く。
「・・・ほんと、河拿さんのこととなると、冷静じゃいられなくなる・・・。」
そう呟き、閨登は瑞煕から顔を逸らす。まるでさっきの瑞煕のように、反応を見るのを恐れているようだった。
鈍っていた頭がようやく回りだし、閨登の言葉を理解し始める。しかし気持ちと反応が追い付かず、言葉は瑞煕の中でぐるぐると彷徨ったままだ。出口であるはずの口はぴったりと閉ざされ、瑞煕は未だ棒のように立ち尽くしていた。顔を逸らしたまま、閨登が絞り出すような声をあげる。
「・・・河拿さん。・・・もし、僕のこと、嫌いじゃなかったら・・・。」
言葉の続きを紡ごうとして、閨登は口を閉ざす。そして力なく首を横に振り、瑞煕に向き直った閨登は泣き笑いのような表情を浮かべていた。
「ごめん、何でもない。・・・今の話は、忘れてくれて構わないから・・・。・・・ごめん、おやすみ。」
声が震えていた。しかし、先ほどのような怒りのこもった震え方ではなかった。逃げるようにその場を走り去る閨登の背中を、瑞煕もまた泣き出しそうな顔で見つめていた。
頭を思い切り殴られたような衝撃だった。胸がぐちゃぐちゃになるような罪悪感だった。
心も頭も真っ白で、今まで気付こうともしなかった。どんな時でも一番に自分を気にかけ、心配して家まで送ってくれた閨登の気持ちに。その優しさに。
感謝の言葉も、謝罪の言葉も何ひとつ出せない自分の歯がゆさに苛立ちを覚えた。走り去る閨登を呼びとめる術が無いのが悔しかった。動かない身体が憎かった。
唇を噛みしめ、ふらふらと玄関へ向かう。流れる涙を袖で拭うたび、頬がヒリヒリと痛んだ。

2.

大声をあげて泣いてしまいたい。しかし、胸を押さえても口から漏れるのは苦しげな呼吸だけだ。
力なくガラス扉を押しあける。目に差し込む電球の光は眩しいほどだが、涙で滲む視界には丁度良かった。パタパタと、スリッパが廊下を叩く音。ひどくゆっくりな足音に合わせて瑞煕の体が揺れるたび、両目から新たな雫が溢れてはこぼれ落ちる。そして、スリッパの音は光が漏れる一室の前で止まった。どうやら皆ここに集まっているらしい。ぼつ、ぼつと話し声が聞こえる。
部屋の扉に手をかけて、一瞬瑞煕はためらった。そして、瞳を覆っている涙の粒を拭い去るとその扉を一気にひいた。話し声がぴたりとやみ、視線がいっせいに瑞煕に集まる。
「瑞煕!おかえりー!」
「おかえり、瑞煕。」
「おかえり瑞煕ちゃん。」
次々に投げかけられる言葉に、瑞煕は顔を上げた。遷己と祷葵が笑顔で視線を向けている。そして、祷葵の隣に見慣れない女性の姿をみつけ、瑞煕は首を傾げた。
紅色の髪をもつその女性は、瑞煕のきょとんとした視線に気付くと、頬笑みながら腰をあげた。
「はじめまして、瑞煕ちゃん。舞田朝奈です。祷葵の昔馴染みなんだ。よろしく。」
柔和な笑みを浮かべながら、入り口で立ちつくしている瑞煕のもとへと歩を進める。すらりと伸びた脚に豊満な胸。全身から滲み出る大人の色香に瑞煕も一瞬圧倒され、慌てて顔を逸らした。今近付かれたら、泣いていたことに気付かれてしまう。しかし、そんな瑞煕の抵抗も虚しく、朝奈は訝しげに眉をひそめて息をのんだ。
「・・・瑞煕ちゃん、泣いてるの?」
その言葉に、部屋の中はどっと騒がしくなった。椅子を蹴飛ばして遷己が瑞煕の前まで飛んでくる。
「み、瑞煕!どうしたんだ?大丈夫か?どこか痛いのか?だ、誰かにいじめられたとか・・・!」
おろおろとしながら矢継ぎ早に言葉を重ねる遷己の後ろで、祷葵も心配そうに椅子から腰を浮かせて瑞煕を見やっていた。こらこら、と溜息混じりに遷己をなだめ、朝奈が瑞煕を背中の後ろに隠す。
「そんないっぺんに言われたら答えられるわけないでしょ。泣いてる女の子にはもっと優しくしなきゃ。」
「で、でも・・・。」
釈然としない様子の遷己を抑制して、祷葵も言葉を続けた。
「遷己、ここは朝奈に任せよう。瑞煕も、女同士の方が何かと話しやすいだろう。」
「そういうこと。」
満足そうに頷き、朝奈は瑞煕の頭を優しく撫でる。そっと見上げると、太陽のような笑みを浮かべた朝奈と目が合った。今まで感じたことのない、いわば包容力のようなものを感じて瑞煕は小さくはにかんだような頬笑みを浮かべた。決まりだね、と笑い朝奈が瑞煕の髪を撫でていた手を肩に下してそのまま彼女の体を抱き寄せる。冷えた体に朝奈の体温が心地よく広がり、瑞煕は思わずその白衣に頬を寄せた。その様子を見ていた祷葵が安心したように笑う。
「・・・やはり、朝奈には敵わないな。」
「でしょー?」
朝奈も自慢気に胸を張る。そして瑞煕の肩を抱いたまま踵を返し、部屋を出ようとした所で朝奈は思い出したように脚を止めた。
「・・・ねぇ祷葵。場合によってはあの事話しても良い?」
「あぁ、是非お願いしたい。遷己には私の方から話す。瑞煕のほうは任せよう。」
「オッケー。ありがと。」
右手の親指と人差し指で丸を作り、朝奈が微笑む。「あの事」と言われてもピンと来ない瑞煕と遷己は、それぞれの担当研究者の顔を見上げた。
「じゃ、行こっか。」
きょとんとしたままの瑞煕を促し、朝奈は部屋を後にする。後ろ手で閉められた扉を見つめたまま、遷己がぽつりと言葉を漏らした。
「行っちゃった・・・。なぁ、祷葵。あの事ってなに?」
「あぁ、話そう。・・・その前に遷己、コーヒーを淹れてくれないか。」
「お前、いつかコーヒーの飲み過ぎで真っ黒になるぞ。」
憎まれ口を叩きながらも、遷己は部屋の隅に設置されたコーヒーメーカーへと向かった。
やがて良い香りが部屋に充満する。椅子に腰を落ち着け、祷葵は小さく息を吐いた。

朝奈に連れられてやってきたのは研究所の給湯室だった。六畳ほどのスペースに冷蔵庫、コンロ、食器棚にポットなど一通りのものが揃っている。壁に沿って机と椅子が置かれ、従業員がここで簡単な休憩をとれるようになっているようだ。椅子を引き、瑞煕を座らせると朝奈は棚からマグカップを二つ取り出し、ポットの横に置かれていたスーパー袋の中を漁る。やがてマグカップから湯気が立ち込めると同時にほんのりと甘い香りがした。瑞煕の横に腰をおろし、マグカップをその前に置く。優しい色合いの飲み物がカップの中で小さく渦まいていた。
「今日ここに来る時買ってきたんだ。どうせコーヒーしか置いてないだろうと思って。ココアだけど飲める?」
ココア、という聞きなれない三文字に瑞煕は首を傾げる。恐る恐るマグカップに口をつけ、一口啜ると目を見開いた。チョコレートのような甘さが口いっぱいに広がり、冷めた体に浸透する。瑞煕は少し興奮した様子で朝奈を見やり、満面の笑みで「おいしい」と口を動かした。良かった、と朝奈も笑いココアを啜る。しばらくの無言ののち、朝奈がゆっくりと口を開く。
「・・・どう、少しは落ち着いたかな?」
躊躇いなく瑞煕が首を縦に振る。涙もすっかり乾いた様子で、冷えた頬にも赤みがさしていた。
「ねぇ、聞かせてもらってもいい?どうして泣いてたの?」
優しい口調で静かに朝奈が尋ねる。どうして泣いていたか。原因は多すぎて絞れない。しばし首を傾げたあと、瑞煕はゆっくりと「しゃべりたい」と口を動かす。その動きを見逃すまいとする朝奈の顔は真剣だった。
「しゃべりたい・・・。そっか、そうだよねぇ。今日は、泣くほどの理由があったんだね。」
こく、と瑞煕が頷く。そして、もう一度口を開き「つたえたい」と動かした。
喋りたい。伝えたい。それが出来ないことが泣くほど悔しかった。研究所の門での光景が頭に浮かぶ。
自分がちゃんと伝えていたら、閨登にあんな顔をさせずに済んだのだ。自分が閨登を嫌っているという誤解も、まだ解けてはいない。ちゃんと誤解を解いて、自分の気持ちをはっきりと伝えたい。胸を押さえて瑞煕は目を伏せる。その様子を見て朝奈が察したように頷く。
「なるほどね・・・。好きな子にちゃんと自分の気持ちを伝えたいと、そういうことね。・・・じゃあ、瑞煕ちゃんは知る必要がある。どうして瑞煕ちゃんが言葉を持たずに目覚めたのか。・・・今から話すことは、瑞煕ちゃんにとって辛いことかもしれないけど、ちゃんと受け入れて欲しい。」
心配そうに朝奈が瑞煕の顔を覗き込む。願ってもないことだった。決意に満ちた瞳で、瑞煕は朝奈の目を見てしっかりと頷く。ココアを啜って一息吐き、朝奈はぽつりぽつりと話し始めた。
真剣な表情で、瑞煕も耳を傾ける。二つのガラス玉のような瞳は、朝奈を捉えて離さない。
ぎゅっ、とマグカップを握りしめる手に力を込める。両の手のひらからじんわりと熱が伝わる。そして朝奈の話は、今から四年前に遡った。

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第9話 雨男と晴れ女

1.

淡い光を放つパソコンのモニターから目を離せないでいる祷葵の意識を戻したのは、けたたましく鳴り響く着信音だった。はっとして視線を移すと、机の上で黒い携帯電話が震えている。
慌てて電話を手に取り、通話ボタンを押す。途端に、焦ったような女性の声が耳に飛び込んできた。
『祷葵!無事なの!?』
「朝奈か。どうしたんだ、そんなに慌てて。」
何事もない祷葵の声を聞いて、朝奈は安心したように息を吐いた。続いて聞こえてきた声は幾分か落ち着きを取り戻していた。
『さっき、あたしのケータイにメールが届いたんだ。差出人はわからないんだけど、メールには四年前のおさらいをしよう、って書いてあった。何か嫌な予感して・・・。』
朝奈の話を聞き、祷葵は再びパソコンのモニターに目をやった。電話口から聞こえた文面と同じものがそこにある。
「朝奈、私のところにもさっき同じ文面のメールが届いている。差出人は古斑だ。どうやって朝奈のアドレスを入手したのかは不明だが、おそらくそのメールも古斑からのものだろう。」
『・・・古斑・・・。やっぱり・・・。』
電話の向こうで朝奈が低く唸る。勘の良い彼女のことだ、薄々気づいてはいたのだろう。しばしの沈黙の後、朝奈が決心したように口を開く。
『祷葵。あたし今からそっちにいくから待ってて。』
「なっ・・・!駄目だ、危険だ。」
慌て祷葵が制するも、朝奈の意志は固いようだ。電話の向こうで声を荒げた彼女の顔が容易に目に浮かぶ。
『あたしより危険な目に遭わせてる子、いるんでしょ?今まさに危ない目に遭おうとしてるかもしれないんでしょ?・・・それに、古斑はあたしにもメールをよこした。呼ばれてるなら、行くしかないじゃん。』
「朝奈・・・。しかし・・・!」
『ごめん、もう遅いんだ。じゃあまた後でね。』
いたずらっぽく笑う彼女の声の後ろから、車のエンジン音が聞こえた。祷葵が何か言う前に電話はそのまま一方的に沈黙する。小さく溜息をつき、祷葵は携帯電話を閉じた。
窓の外から、冬の日射しが差し込む。白い雲の隙間から、青い空が顔を覗かせていた。

朝奈が河拿研究所に到着したのは、それからおよそ二時間後のことだった。勢いよく山を走り抜ける車のエンジン音を聞きつけ、祷葵が玄関口に向かうと、真っ赤な乗用車が研究所内に豪快に滑り込んでくるのが見えた。紅色の髪を揺らし、両手にいっぱいの鞄を持った朝奈がヒールを鳴らしながら玄関に駆けこんでくる。四年前と幾分も変わらないその姿に、祷葵は苦笑を隠しきれなかった。
「久しぶり、朝奈。随分と早い到着じゃないか?」
「まあね。ちょっと飛ばし過ぎたかも。早速だけど祷葵、研究室貸して!」
笑顔で朝奈が掲げたのは、両手に抱えたいくつもの鞄だった。中からガラスの擦れる音が聞こえ、祷葵は顔をしかめる。
「構わないが・・・。何を始める気なんだ?」
「四年前のこと、繰り返させるわけにはいかないでしょ。あたしも独自に進めてた研究がようやく完成してね、今から古斑をぎゃふんと言わせる武器を作るのよ。もちろん、祷葵にも手伝ってもらうからね。」
それなりの重量があるであろう鞄を担ぎなおし、朝奈は不敵な笑みを浮かべている。一抹の不安を感じながら、祷葵は朝奈に続いて研究室へと向かった。

広い部屋に、大小様々な機械とベッドが並んでいる。濁った液体が入った円柱形のガラスは、大人の人間が一人すっぽりと入りそうだ。その中に収められているのは小型の黒い物体。四肢には鋭い爪があり、飛躍するための翼は力なく下へ垂れ下がっている。瞳に光を灯していないその生物は、円柱の中で漂うように浮かんでいた。朝奈はその黒い生物を見るなりふふん、と満足そうに笑う。
「さすが祷葵。やっぱり保管しててくれたんだ。これなら作業もはかどるってもんよ。」
「・・・朝奈、そろそろ教えてくれないか。古斑の異形が何か役に立つのか?」
「役に立つと思ったから、あんたも取っといたんじゃないの?」
いたずらっぽく笑い、朝奈が鞄の中からいくつもの書類を取り出し机に並べる。それに目を通し、祷葵は目を見開いて息を呑んだ。
「・・・これは・・・!」
「祷葵の研究を、ちょこっと借りて応用したんだ。これなら古斑にも十分対抗できるでしょ。」
得意げに朝奈が胸を張る。あぁ、とうなずいた祷葵の顔にも笑顔が浮かんでいた。期待と興奮で胸が高鳴る。その横で朝奈は持っていた鞄を全て床におろし、羽織っていたダッフルコートのボタンを外し始めた。コートを脱いだ朝奈の胸に光るものを見つけ、祷葵は小さく笑みを浮かべる。白衣の左胸に光る銀のネームプレートには「河拿研究所副所長 舞田朝奈」としっかり刻まれていた。満面の笑みで朝奈が祷葵に向き直る。
「じゃ、始めますか。所長!」

時刻は午後四時をまわろうとしている。傾き始めた太陽が、十二月の町を淡く照らしている。
白志木大学の大きなガラス扉から、遷己と暁良が姿を現した。水色の空を見上げて、気持ち良さそうに目を細めている。ぐぐっと背中を伸ばし、暁良が大きく息を吐いた。
「ふわぁ~・・・終わった・・・。なぁ遷己、お前も今日バイト休みだろ。どっか行かね?」
「お、良いな!行こうぜ!」
決まりだな、と暁良が笑う。その笑顔が、昨晩見た写真の女性を思い出させる。赤い髪も、太陽のような明るい笑顔も良く似ていて、あの女性が「舞田朝奈」という人物なのだと、暁良の姉なのだと改めて実感する。
自分の知らない祷葵の過去を、河拿研究所の過去を知っている姉弟。昨日写真立てを見たときの、胸がざわつく感じが再び遷己を襲った。
「・・・なぁ、暁良。」
足を止め、少し前を歩く暁良を呼びとめる。「ん?」と声を上げ、暁良がゆっくり振り返った、その瞬間だった。

――ザザザザザッ・・・
大きな音を立て、周囲の木々が一斉に騒ぎだす。叩きつけるような突風は、巨大な影を落として二人の上を通り過ぎた。周りから次々と悲鳴が上がる。
「あれは・・・!」
影が過ぎ去った方へと視線を向け、遷己は思わず声を上げた。
冬の雲に溶けるような白い巨体が翼をはためかせ、猛スピードで飛び去ってゆく。その風貌は、古斑の異形と酷似していた。
しかし、古斑の異形ならば遷己に何らかの反応を示すはずである。白い影は遷己には目もくれず、その行き先は河拿研究所とは反対方向だ。訝しげに顔をしかめ、遷己は首をひねった。
「な、何だ?今の・・・。」
影が消えた方向を見つめて呆然としていた暁良が口を開く。遷己よりもずっと前から古斑の異形を見続けていた暁良でさえ、あの白い異形を見るのは初めてらしい。立ち尽くしている暁良を横目に、遷己は駆けだしていた。胸にこみあげる衝動は、もはや押さえきれない。
「ごめん、暁良!また今度な!」
「お、おい!遷己!?」
呼びとめる暁良の声も耳に届かず、遷己は駐輪場へと向かった。ひったくるように自転車を取り出し、ペダルに体重を乗せる。遷己を乗せた自転車は、河拿研究所へ向けて一目散に風を切った。

2.

息を切らせて木々に囲まれた山道を駆けのぼる。全身に汗が滲み、火照った顔に吹き付ける北風が心地良い。
河拿研究所の門を抜けた所で、遷己は目を丸くして自転車の速度を緩めた。見慣れない真っ赤な車が、玄関の前に無造作に停めてある。タイヤから伸びた黒い後は駐車場に大きな弧を描いていた。
いつもの場所に自転車をつけ、玄関のガラス扉に体当たりして滑り込むように中に入る。膝に手を当てて息を切らせていると、頭上から声がかかった。
「お帰り遷己。どうしたんだ、何かあったのか?」
「祷葵・・・、なんか、白い、でっかいやつが・・・!」
息も絶え絶えにそれだけ伝え、呼吸を整えようと大きく息を吐く。コツ、とヒールの音がしたかと思うと聞きなれない女性の声がした。
「遷己くん、あれを見たんだね。安心しなよ。あれはあたし達の味方だからさ。」
はっとして顔を上げる。祷葵の隣に、紅色の髪を持つ女性が立っていた。二人ともビニールシートや透明なチューブ、大きなタオルを大量に抱えていかにも「片付け中」といった出で立ちだ。両手に荷物を抱えたまま、白衣の女性が遷己に向き直る。
「はじめまして。あたしは舞田朝奈。祷葵とは昔っからの付き合いなんだ。よろしく。」
そう言って浮かべた笑顔に、遷己は確かに見覚えがあった。所長室の写真立ての中で。そしてついさっき、大学で。
「暁良の・・・。」
つい、口に出していた。その言葉を聞いた朝奈が声を弾ませる。
「おっ、暁良の友達?あいついい加減だけど、まぁ悪いヤツじゃないからさ。弟のこと、よろしくね。」
そう言って遷己にウインクして見せる。華やかな顔立ちに丁寧な化粧、ピンヒールから伸びる黒タイツ。今まで感じたことのない大人の色香に、遷己の胸も自然に高鳴った。もちろんです、と胸を張り満面の笑みを返す。その光景を微笑ましく見ていた祷葵が口を開いた。
「じゃあ遷己。早速だが片付けを手伝ってくれないか。」
「いいけど・・・。これ、何なんだ?」
祷葵と朝奈の足元に、まだまだ大量に積み上げられた何かの残骸を怪訝そうに見つめる。ビニールシートを持ち上げると、ぬるっとした液体が滴り独特の臭いを放った。思わず顔をしかめる遷己を見て、朝奈が笑い声をあげる。
「あとでゆっくり教えるよ。ついておいで。」
スリッパに履き替えた朝奈が先を歩く。行くぞ、と祷葵に促され、遷己は滴る液体を両手で押さえつつ大分へっぴり腰になりながらも二人の後に続いた。

朝奈と祷葵に先導され、辿りついたのは広い研究室だった。一歩足を踏み入れ、遷己は息を呑んだ。
「ここは・・・。」
「懐かしいだろう、遷己。」
祷葵の表情は読み取れない。遷己の目は、無機質な白い空間に釘付けになっていた。静かに作動する機械の音、並べられたベッドの硬さも良く知っている。あれから近づくことすらなかったこの部屋は、一度見ただけで忘れられない数々の光景を遷己に刻みつけていた。
そして、あの時は無かった・・・いや、気付かなかったのかもしれない円柱の大きな水槽。その中に漂う黒い物体を見つけ、遷己は思わず左手に力を込めた。
「祷葵、あれは・・・?」
遷己の指す方向を見やり、祷葵は「ああ」と笑みを含んだ声を漏らした。
「古斑の異形だ。もちろん生きてて襲いかかってくるなんてことは無いから安心しろ。」
「なっ・・・誰もそんなこと心配してねぇって!何であんなの保管してんだよ?」
「そんなこと」を心配していたのだろう、遷己の声は恐怖の色を隠し切れていなかった。朝奈が肩を震わせて笑いを押し殺す。くく、と漏れた声の方に遷己がむっとした表情を向けた。
「ごめんごめん。でもこの古斑のペットだって案外役に立つもんさ。さっきあんたが見た白いのも、この異形からあたし達が作ったんだ。」
「えっ?」
自慢げに胸を張る朝奈の言葉に、遷己は思わず声を上げた。言葉を続ける祷葵も、どことなく誇らしげだ。
「朝奈は腕の立つ研究者なんだ。古斑の異形から作ったクローンを、たったの四時間であそこまで大きく成長させた。・・・私なんか、四年もかかったのにな。」
最後は少し自嘲気味に静かな笑みを浮かべた祷葵を、遷己は怪訝そうな顔で見つめた。その視線から逃れるように、祷葵は小さく笑い声を上げた。
「さ、片付けの続きだ。朝奈がやたら大きなものを作るから、片付けの方も骨が折れる。」
「なによー。祷葵だって途中からノリノリだったくせに。それに、古斑をぎゃふんと言わせるならあんくらい迫力のあるやつじゃないとね。」
眩しいくらいの笑顔で朝奈が手に持っていたビニールシートを掲げる。豪快な性格も暁良そっくりだ、と遷己もつられて笑い声をあげた。
しかし、自嘲気味に笑った祷葵の顔が、放たれた言葉が、脳裏に焼き付いて離れないでいた。

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第8話 ゆめこいびと

1.

クラス全体がそわそわと浮かれた雰囲気になっているのに、瑞煕は教室に入るなり感づいていた。しかし、感づいたところで一体クラスを騒がせている原因は何なのか理解できずに困惑する。
今日から十二月に入る。十二月になったら何かあるのだろうか?頭をひねりながら席についた。
「おはよう、河拿さん。」
隣の席の閨登が声をかける。おはよう、と口を動かし笑顔を返したはいいものの、そこから二人の間には沈黙が流れ始めた。
一か月前、体育倉庫に閉じ込められてしまってから、何だか閨登の態度が今までと違ってしまったような居心地の悪さを瑞煕は感じていた。あの事件の翌日、大丈夫だったか尋ねてみると、「みっともないところ、見せちゃったね。」と頬を赤らめて笑っていたのを覚えている。しかし、閨登の一番見られたくなかったであろうものを見てしまった罪悪感と後ろめたさから、瑞煕自身も彼に対する態度を変えてしまった。しかし、それよりも大きな原因は他にある。
閨登の顔を見るたび、瑞煕は息が詰まるような感覚に襲われ、全身がのぼせたように熱くなり、何も言葉が出てこなくなりつい顔をそむけてしまうのだ。以前のような他愛もない会話はめっきり減ってしまい、やがて閨登の方から話しかけてくることも少なくなっていた。
気まずい雰囲気のままホームルームが始まり、午前の授業が過ぎてゆく。黒板を写すペンの音が、ノートや教科書をめくる音が、閨登が隣にいるということを伝えてきて瑞煕の鼓動は鳴りやまないままだ。
意識すればするほど心臓は激しく脈打ち、息もできないほどだった。胸をぎゅっと押さえ、浅く吐いた瑞煕の息は震えていた。耳の中でガンガンと鳴り続ける音は、いつしか隣から聞こえてくるペンの音をもかき消していた。

あっという間に四時間が流れ、午前の授業が終わる。浅い呼吸を繰り返していた瑞煕はすっかり疲れ果てていた。酸素不足でかすむ脳は午前の授業の半分も入ってきていない。冷たい空気で頭を冷やそうと、瑞煕は力ない足取りで教室を後にした。
廊下のひんやりとした冷気にあてられ、頭の中にかかっていた霧が晴れ渡るような感覚に瑞煕は安堵の息を吐いた。他クラスの生徒たちが一同に集い混じり合い、廊下は昼休み特有の喧騒に満ち溢れている。そんな中、瑞煕の背後でガラリと教室の扉が開く音がした。
「・・・河拿さん?」
聞こえてきた声に、瑞煕の心拍数が一気に跳ね上がる。慌てて振り返ると、心配そうに眉をひそめた閨登の姿があった。
「河拿さん、大丈夫?授業中ずっと辛そうだったし・・・。具合、悪い?」
いつもとは違う声色で、閨登が心の底から心配してくれているのを感じ取り、瑞煕の心は申し訳ないような、くすぐったいような不思議な感覚で満たされた。笑顔で首を横に振り、大丈夫と伝えると閨登は良かった、といつもの笑顔を浮かべる。久しぶりに見たその笑顔に、瑞煕は一カ月で出来た溝が一気に埋まるような、高揚した気持ちを感じていた。
口をつぐみ、言葉を探すように閨登は目を伏せる。瑞煕も閨登の顔を見上げながら、じっと次の言葉を待つ。騒がしい廊下の中で、二人の間だけしばしの沈黙が流れた。しかしその沈黙を破り、瑞煕に声をかけたのは閨登ではなく廊下の向こうから現れた見知らぬ他クラスの男子生徒だった。
「あっ、いたいた河拿さーん!ちょっといい?」
瑞煕と閨登が同時に声をした方を見やる。制服を着崩し、髪をワックスで立たせた男子生徒は、ハイテンション気味に手を振りながら瑞煕へと歩み寄る。いきなりの見知らぬ生徒の乱入に瑞煕はすっかり怯え、男子生徒と距離をとるように後ずさった。
「ちょっとちょっと!そんなに怯えなくてもいいじゃん!ねぇねぇ、河拿さん今日の放課後ヒマ?」
瑞煕の肩に手を置き、男子生徒はニコニコと笑っている。しかし、その笑顔も瑞煕にとっては不快でしかなかった。ぶんぶんと首を横に振ると、男子生徒は瑞煕の肩に腕をまわして駄々をこねる子供のような、甘えた声を出す。
「え~いいじゃんつれないなぁ。俺とデートしよ?もうすぐクリスマスだしさぁ、お互い寂しい思いはしたくないじゃん?ねっ?」
嫌悪と恐怖で瑞煕が顔をしかめる。肩にまわされた腕を振りほどこうとした瞬間、密着していた男子生徒の身体が一気に引き剥がされた。泣きそうな顔で瑞煕が見上げると、今まで見たことのないような鋭い眼差しで、閨登が男子生徒を睨みつけている。動けないでいる瑞煕の手首を閨登が掴み、ぐいと背中の後ろに引き寄せる。
「ごめん、河拿さんは僕と先約があるんだ。あきらめて。」
背後からでは閨登の表情は読み取れない。しかし、背中ごしに聞こえる怒りを押し殺したような冷たい声に瑞煕は動揺を隠せないでいた。男子生徒が顔をしかめて声を荒げる。
「は?何だよ鴕久地。お前らデキてんの?マジで?」
「マジで。行こう、河拿さん。」
閨登に手を引っ張られ、瑞煕も後に続く。すれ違い様に見た男子生徒は呆然とした表情を浮かべていた。人混みをかきわけ、無言で閨登は歩を進める。すれ違う生徒から注目を浴びて瑞煕は顔を伏せる。しかし、その手を振り払うことも、立ち止まることも躊躇われた。

人通りのない階段の踊り場まで出ると、そこでようやく閨登は足を止めた。その隣まで歩を進め、瑞煕は閨登の顔を覗き込む。小さく安堵の息を吐いた閨登は、いつもの温厚な表情を浮かべていた。
「大丈夫だった?河拿さん。」
その言葉に瑞煕は大きくうなずき、ありがとう、と口を動かした。手首を掴んでいた閨登の手が離れ、ひやりとした空気が残った熱さえも冷ましていく。名残惜しそうに瑞煕が手首を触ると、閨登が慌てたように口を開いた。
「ご、ごめん!手、痛かった?」
その言葉に瑞煕も慌てて首を横に振る。ちがう、だいじょうぶ、ごめん等矢継ぎ早に口を動かそうとするも、うまく行かずに俯いてうやむやに濁した。そっか、と呟いて閨登も俯く。
「あ、あの・・・さ。」
ためらいがちにかけられた声に、瑞煕は顔を上げた。視線を泳がせ、言葉を探しているであろう閨登の緊張感が伝わり、瑞煕も身体を強張らせる。
「さっき、つい先約があるなんて言っちゃったけど・・・。実は、そのことで河拿さんに声をかけたんだ。・・・その・・・。」
閨登の顔がみるみる赤くなっていくのがわかる。瑞煕も、火がつきそうなほどの顔の熱を感じていた。全身が心臓になったみたいに激しく脈打っている。
「きょ、今日の放課後!」
絞り出すような声で、閨登が口を開く。瑞煕も、そんな閨登から目が離せずにただ次の言葉を待った。二人の顔が耳まで赤く染まる。探るような声で、恐る恐る、閨登が続ける。
「・・・一緒に、帰りま・・・せんか?」
今日は初めてのことばかりだ、と瑞煕は思う。あんな鋭い眼差しで、瑞煕でさえ恐怖を感じるほどの怒りを露わにしていた閨登も、こんな風に顔を真っ赤にしてしどろもどろになっている閨登も、今まで見たことがなかった。そして、痛いくらい打ち付ける胸の鼓動と、冬だということを忘れるくらいの熱も、教室で感じていたものとは比べ物にならない、これまで感じたことのない初めての感覚だった。
そして、今まさに閨登と二人で帰るという、初めての約束をしようとしている。はにかみながらも精一杯の笑顔を浮かべ、瑞煕は小さくうなずいた。閨登の顔がぱっと明るくなる。
「っ・・・本当!?」
もう一度、今度は閨登の顔を真正面から見据え、満面の笑みで大きくうなずく。全身の力が抜けたらしく、閨登は大きく息を吐いて階段の手すりに体重を預けた。
「良かった・・・。」
そう溜息混じりに漏らす。同じく、緊張感から解き放たれた瑞煕がくすくす笑うと、閨登も照れたような笑い声をあげた。

2.

それからの午後の授業は、ほとんど身に入らなかった。放課後のことで頭がいっぱいになり、その時間が刻一刻と迫ると同時に瑞煕の心臓は悲鳴をあげた。
授業の全日程が終了し、ホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴り響く。いつも通り鞄にノートや教科書を仕舞う作業も、今日だけは何故か特別なことのように思えた。
今にも震えだしそうな手を教科書で押さえ、平静を装いながら片づけを終える。鞄の口を閉じて隣を見ると、同じように準備が整ったらしい閨登と目が合った。照れたように笑い、閨登が口を開く。
「・・・行こっか。」
笑顔で頷き、瑞煕はそれに答えた。廊下に出て二人並んで歩きだす。校内は下校する生徒で溢れかえり、閨登とはぐれないようにするだけで精一杯だった。流されるように昇降口まで辿りつき、外に出ると冷たい北風が瑞煕の髪を揺らした。校内では無言だった閨登も、風に吹かれて身を震わせた。
「寒いね。大丈夫?」
むしろ暑いくらいだ、と瑞煕は頷く。人混みから解放され、ようやく二人は歩幅を合わせながらゆっくりと歩き出した。
「今日はごめんね、付き合わせちゃって。」
申し訳なさそうに眉をひそめる閨登の言葉に、瑞煕は首を横に振った。少し安心したように微笑み、閨登は続ける。
「・・・僕、河拿さんに嫌われたって思ってた。あんなとこ見られちゃったし、幻滅されても仕方ないって。
でも、そうやって理由つけて、河拿さんを避けてたのは僕の方だった。自分で自分のこと嫌いになって、こんな情けない顔河拿さんに見られたくなくて・・・。ごめん。」
力なく謝る閨登の声に、瑞煕は驚いて顔を上げた。瑞煕の方こそ、閨登に嫌われたと思い込んで、ここ最近落ち込んでいたのだ。言葉が出て来なくなるとすぐに俯いてしまうこの癖に嫌気がさして、愛想を尽かせていたのは紛れもなく自分自身だったというのに。
もう一度、ごめんと謝る閨登の言葉に瑞煕は頭が痛くなるくらい激しく首を横に振った。
謝るのは自分の方だ。誤解を解くには今しかない。瑞煕は閨登の前に回り込み、俯いているその顔を真正面から見上げた。戸惑ったような表情の閨登と目が合う。本当のことを、一言一句間違わないように伝えたくて、瑞煕の唇が緊張で震える。一呼吸おいて口を開こうとした、その瞬間だった。
「理子!」
大きな声が聞こえ、瑞煕と閨登は顔を見合せたまましばし硬直した。理子という聞いたことのない名前なのに、瑞煕の記憶の奥底が揺さぶられる。ゆっくりと後ろを振り返り、声のした方を見やって瑞煕は息を呑んだ。
黒い髪に端正な顔立ち。年齢は祷葵より少し下くらいだろう、長身の男が人の良さそうな笑みを浮かべている。その男に、瑞煕は確かに見覚えがあった。夢から覚めたあとの、切り刻まれるような胸の痛みを感じて瑞煕は身体を震わせる。
その男は、瑞煕の顔を見るなり満面の笑みで二人に駆け寄った。

「やっぱり理子だ。四年ぶりだね。」
ぞく、と瑞煕の背中を悪寒が駆け抜ける。四年前といったら、瑞煕はまだこの世に存在してすらいないのだ。じりじりと後ずさる瑞煕を、閨登が怪訝そうな顔で見やった。
「河拿さん、知り合い?」
怯えたような瞳で男性を見つめたまま、瑞煕が首を横に振る。肩をすくめて、男性が笑った。
「酷いなぁ理子。いくら元とは言え彼氏の顔を忘れるなんて。」
「っ!?」
初耳だ。身に覚えがない。閨登のコートの袖をぎゅっと掴み、瑞煕は小さく首を振る。きっとこの男性は人違いをしているのだ。閨登を見上げ、泣きだしそうな顔で「ちがう」と口を動かす。小さく頷き、閨登が口を開いた。
「すみませんが、人違いじゃ・・・」
「いや、違わない。確かに梶浦理子だ。・・・いや、」
閨登の言葉を遮って、男性が冷たい笑顔を作る。先ほどまでの人の良さそうな表情とはうってかわった雰囲気に、瑞煕は身体を強張らせた。
「『元』梶浦理子、が正しいかな。河拿瑞煕ちゃん?」
全身から血の気が引いて行く。足が震え、頭がガンガンと痛んだ。「え?」と声を漏らし、瑞煕を見やる閨登の声も視線も、どこが現実味を帯びずに霞がかった。ガラス玉のような瞳はいっぱいに見開かれ、男性を見据えたまま動かない。
『元』梶浦理子。男性の言葉が真っ白な頭の中を駆け巡る。固まったままピクリとも動かなくなった瑞煕を見て、男性が笑い声を上げた。
「その様子だと、所長さんからなーんにも聞いてないんだね?俺が替わりに教えてあげようか?知りたいでしょ、自分の正体が誰なのか。自分が何者なのか知りたいでしょ?」
畳みかけるように男性が言葉をぶつけてくる。
所長室で見つけた、一枚の写真が頭の中によみがえる。自分によく似た人物。それがこの男性の言う自分の正体とやらに関係があるのだろうか。
本当のことを知りたい気持ちと、男性に対する恐怖心が瑞煕の中でぶつかる。何より、この男性の口から語られることを、閨登に何一つ知られたくはなかった。
ゆっくりと肩に伸びてきた男性の手を、瑞煕は思い切り振り払う。呆気にとられている男性を睨みつける瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。きょとんとして男性が首をひねる。
「あれー?振られちゃった。やっぱ新しいカレシ出来たら俺なんか用無しって感じ?残念だなぁ昔はあんなに愛し合った仲なのに。」
閨登が顔をしかめる。瑞煕を庇うように一歩前へ出て男性を睨みつけるその眼光は、静かな怒りを秘めていた。
「・・・あなたは一体何者なんですか?」
静かにそう問いかけると、男性はぽん、と両手を合わせた。そして張り付けたような笑顔を浮かべてわざとらしく明るく声を上げる。
「ごっめん!自己紹介がまだだったね。俺の名前は月島カヤト。・・・いや、古斑カヤトって言ったほうが、今の理子にはわかりやすいかな?」
「こむら」その三文字を聞いた瞬間、瑞煕の身体は凍りついた。
古斑カヤトと名乗った男性は満面の笑みで、瑞煕に手を伸ばす。
そして、諭すような優しい口調で、ゆっくりと瑞煕に語りかけた。

「四年前のおさらいをしよう、理子。」

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第7話 少年と少女

1.

漆黒の闇夜を、巨大な風が吹き抜ける。赤い二つの光が町を横切る。
それを追いかける二つの白い影。膝下まである長い白衣をはためかせ、それぞれの片腕は本来の形を失っていた。
月の光もない冬の夜空に溶け込み、黒き異形はそのスピードを緩めることなく真っ直ぐ山に向かって風を切っている。携帯電話を耳に当て、片腕を黒光りする銃に変形させた遷己が口を開いた。
「祷葵、やっぱりこいつ研究所に向かってるぞ!」
『あぁ、町で暴れられるよりよっぽど良い。そのまま山の中まで追いこんでくれ。』
「了解!瑞煕、このままやつを追い詰めるぞ!」
隣を走っている瑞煕に声をかける。右手を鋭利な刃に変形させた瑞煕は、鋭い眼差しで異形を捉えたまま頷いた。
ここ最近古斑の攻撃の手は勢いを増し、異形が町に姿を現す頻度も高くなっていた。そのため昼夜問わず、瑞煕と遷己は異形の討伐に追われている。
ラストスパートをかけにきている、と祷葵は言う。瑞煕と遷己の存在に気付いた古斑側が焦りを見せているとのことである。祷葵の強力な武器であり盾である二人は、古斑にとって最も邪魔な存在だと言えるだろう。
強硬手段に出た古斑の異形を、遷己の弾丸が捉える。短い叫び声を上げて、異形は周囲の樹木にその身体を叩きつけながら地に伏せた。すかさず、白い刃がその首元に振り下ろされる。断末魔の叫びは途中でぶつりと切れ、異形の頭が身体を離れて宙を舞う。鈍い音を立てて地面に叩きつけられた頭部に、自身の体液が雨のように降り注いだ。
ピクリとも動かなくなった異形を見下ろし、瑞煕が小さく息を吐く。その背後から遷己が溜息まじりに声をかけた。
「はぁ・・・。これで今月入って三体目だぜ。どんだけ多いんだよ。・・・そのかわり、なんだか段々よわっちくなってるけど。」
「それはそうさ。こんなもの、古斑がこねくり上げて作った粘土細工にすぎない。量産すれば、その質が落ちのは当然のことだ。」
松葉杖をつきながら、祷葵が木々の間から姿を現す。地に伏して絶命している黒い塊を見て眼鏡の奥の目を細めた。
光を失った二つの瞳が祷葵を捉えて離さない。苦痛に歪んだ表情のまま凍りついた異形から強い憎悪を感じ、祷葵は頭を押さえ首を振った。 ガンガンと頭が痛む。ぐらりと視界が揺れる。キリキリと痛んだ胸は、まるで誰かにナイフで切りつけられているかのようだ。
「套矢・・・もうやめてくれ。」
「祷葵?」
心配そうな遷己の声が、どこか遠くで聞こえる。草を踏み分けて駆け寄ってくる二つの足音を感じながら、祷葵はゆっくりと目を閉じた。

***

まだ真新しいその建物は、太陽の光を浴びて白い輝きを放っていた。舗装された道路の先には、ピカピカに磨かれた銀のプレートが来るものを歓迎している。
木々に囲まれたその道を、二人の少年が息を切らして駆けあがってゆく。各々の手には白い紙が一枚、大事そうに握りしめられていた。鉄の門を抜け、コンクリートで固められた駐車場の脇を走り抜け、我先にと建物の中に入ってゆく。
大きなガラス戸の先に赤いレンガ調の玄関スペースと下駄箱。どこか学校の昇降口を彷彿とさせるその場所で、二人の少年は足を止めた。肩で息をしながら目の前の人物を見やる。黒髪に眼鏡をかけ、長い白衣をまとっている男性が、目を細めて笑いながら少年たちを出迎えていた。
「お帰り、祷葵。套矢。何かご報告があるのかな?」
そう言いながらしゃがみ、少年たちと目線を合わせる。少し背の高い少年が、元気よく手に持っていた紙を男性に見せた。
「父さんみてみて!こないだのテスト、満点とったんだよ!」
「凄いじゃないか祷葵。さすがはお兄ちゃんだな。」
満面の笑みで、男性が少年の頭をくしゃくしゃと撫でる。祷葵、と呼ばれた少年も満足そうに笑った。その様子を見ていたもう一人の少年が、慌てて手に持っていた紙を男性に見せる。
「父さん俺も!俺もはなまるだったんだよ!」
「おぉ、套矢も満点かぁ。頑張ったな、えらいぞ。」
套矢の頭も同様にくしゃくしゃと撫で、二人いっぺんに抱きしめる。男性が幸福のひとときを堪能していると、廊下の奥から若い男の声が上がった。
「所長!ちょっとこっちにお願いします!」
「あぁ、今行く!それじゃぁ祷葵、套矢。母さんにも見せておいで。」
うん!と元気いっぱいにうなずき、二人の少年はパタパタと廊下を駆けてゆく。その後ろ姿を愛おしそうに見つめていると、再び若い男の声がした。
「所長、本当に息子さんが可愛くて仕方ないんですね。」
「当たり前だ。俺の一番の宝物だからな。お前も結婚して子供を持ったらわかるぞ。」
未だにやつく顔を押さえながら男性が歩を進める。そんなもんですか、と呟き若い男もその後に続く。
騒がしい声も遠くなり、玄関ホールには再び静寂が訪れた。午後の光をめいっぱいに取り込み、穏やかな空気が流れている。
一人の女性研究員が、透明なジョウロを持って玄関ホールに足を踏み入れた。小さく鼻歌を歌いながら、ホールに並べられた観葉植物に水を注いでゆく。ふと女性が玄関の外に目を向けると、一人の少女がこちらに駆けてくるのがわかった。太陽のように真っ赤な髪を揺らし、満面の笑みを浮かべている。やがて元気いっぱいな声が玄関に響き渡った。
「こんにちはー!!」
「こんにちは朝奈ちゃん。今日も元気ねぇ。」
「うん!あのね、テストで頑張ったねって、ママにほめられた!」
すごいね、と女性が笑うと朝奈と呼ばれた紅髪の少女も満足そうな笑い声をあげた。廊下の奥から、元気な子供たちの声と足音が聞こえる。女性と朝奈が廊下の方に目をやると、やがて二人の黒髪の少年が姿を現した。
「あ、朝奈だ!」
「トーキ、トーヤ!あそぼー!」
朝奈が手を振ると、うん!と二人もうなずく。玄関ホールは再びにぎやかな子供の声で満たされる。
その様子を見ていた女性研究員がふふ、と笑い声をあげた。
「ねぇ、朝奈ちゃんは将来どっちのお嫁さんになるのかな?」
「な、ならないもん!」
顔を真っ赤にした朝奈が声を荒げる。きょとん、として祷葵も続けた。
「そうだよ、しないよ!」
「ちょっと!!」
朝奈に力いっぱい背中を叩かれ、祷葵は前のめりに倒れる。耳も手のひらも真っ赤になった朝奈を見て、女性研究員と套矢が同時に笑い声をあげた。
その日、元気溢れる子供たちの笑い声は暗くなるまで絶えることはなかった。
あまりにもおだやかで、あまりにも幸せな、輝きに満ちた時間。
子供たちの声が段々遠くなり、やがて一人の男性の声が遠くの方から聞こえてきた。

***
2.

ゆっくりと目をあける。ぼんやりとした視界は白くにごり、それが電灯の光なのだと理解するのに時間がかかった。かすかに手を動かすと、やわらかい布団の感触がある。
「祷葵!気がついたのか?」
心配そうな声があがり、視界の一角が陰る。輪郭はぼやけ、黒、白などのあいまいな情報だけで構築されたその影がゆっくり動いている。鈍る思考を巡らせ、祷葵は口を開いた。
「・・・遷己か?」
「あぁ。もうホント驚いたぜ。いきなり倒れるんだもん。大丈夫か?」
「大丈夫だ。・・・すまない、世話をかけたな。」
上体を起こし、遷己から手渡された眼鏡をかける。ぼやけた視界がはっきりと澄み渡った。ここはどうやら所長室の奥の寝室らしい。本来の役割は仮眠室なのだが、祷葵が普段からここに寝泊まりしているため瑞煕も遷己もここが祷葵の寝室だと信じて疑っていない様子だ。ぐるりと視界を巡らすと、見慣れた部屋の中に心配そうな顔の遷己と瑞煕がいた。
「最近、根詰めすぎなんじゃねーの?あの黒いヤツもいっぱい来るしさ。良い歳なんだから、あんま無茶すんじゃねーって。」
「良い歳は余計だ。・・・だが、古斑と同じように私も焦っていたのかもしれないな。
ありがとう遷己。気をつけよう。」
素直でよろしい、と遷己が満足そうに笑う。瑞煕も笑顔で頷き、座っていた椅子から腰をあげた。
「じゃ、今日は早く寝ろよ。」
「あぁ、そうするよ。おやすみ、遷己。瑞煕。」
おやすみ、と言葉を返して、二人は所長室を後にする。廊下に出た遷己と瑞煕の表情は一様に沈んでいた。
パタパタと、スリッパが廊下を擦る不揃いな足音が研究所内に響く。主が寝静まった研究所は、耳が痛いほどの静けさだった。
「・・・聞けるわけ、ないよな。」
重たい口を開いて、遷己がぽつりと呟く。瑞煕は俯き、床に視線を落したままだ。
聞けなかった。
眠っている間、祷葵が口にしていた「トウヤ」という名も、うっすら浮かべていた涙の訳も。
所長室に飾ってあった写真の中で笑っていた、自分達によく似た人物のことも。
ふぅ、と遷己が小さく溜息を吐く。
「・・・まぁ、そのうち祷葵の方から話してくれるだろ。それまで、信じて待とうぜ。」
その言葉に、瑞煕もぎこちない笑顔を浮かべて頷いた。
廊下を進む二人の足音は階段を上がり、その先にある研究員宿泊室の前で止まった。白い簡素な扉の上には銀色のプレートで部屋番号がふってあり、より階段に近い一号室が瑞煕の部屋、隣の二号室が遷己の部屋として割り当てられているようだ。ドアノブに手をかけ、瑞煕が「おやすみ」と口を動かすと、遷己もおやすみと返し二つの扉が同時に開かれた。
後ろ手でドアノブを引き、瑞煕は軽く息を吐いた。一号室の中は扉も壁も真っ白なシンプルな作りになっているが、ベッドや机、クローゼットや本棚がなんとか部屋としての雰囲気を醸し出している。
仰向けでベッドに身体を投げ出し、瑞煕は右手を高く掲げた。薄暗い部屋の中で、手首の白いリングだけが鈍く光って見えた。
わからないことだらけだ。祷葵のことも、古斑のことも、自分たちのことも。
そして、たまに夢の中に出てくる見知らぬ男のことも。その夢を見るたび、瑞煕は切り刻まれるような胸の痛みを感じて飛び起きるのだ。
全ての真実が、厚いベールで何重にも覆い隠され、何度思考を巡らせても同じ所で行き場を失い、ぐちゃぐちゃと闇の中に溶けてゆく。
ラストスパート、という祷葵の言葉。信じて待とう、という遷己の言葉。
本当のことを知りたくて焦る心と、それを押さえようとする気持ちで瑞煕の胸はざわついていた。
ぽすん、と音をたてて右腕がベッドの上に落ちる。力の抜けた身体を布団に沈め、瑞煕はゆっくりと目を閉じた。

薄く部屋に差し込む光を感じて、瑞煕はゆっくりと目を開けた。どうやらあのまま眠ってしまっていたようだ。冬の朝の、底冷えする寒さに襲われ身体を震わせながら、瑞煕は壁にかけてあったコートを羽織り、扉を開けた。廊下はしんと静まり返り、雪景色のような白い空間が寒さをより一層際立てているようだ。早く食堂へ行って暖をとろうと、瑞煕は足早に階段を下りた。
一階に足を踏み入れると、コーヒーの良い香りが鼻をくすぐった。その香りに引き寄せられるように廊下を進み、食堂の重い扉を開けると、温かい空気が冷えた瑞煕の身体を心地よく包む。白いシャツに黒い厚手のカーディガンを羽織り、祷葵は柔和な笑みを浮かべている。
「おはよう瑞煕。寒いだろう、早く温まるといい。」
そう言って、赤い火が灯っているストーブを見やる。こくりと頷き、瑞煕が歩を進めた先はストーブの傍ではなく祷葵の隣だった。「大丈夫?」と口を動かすと、祷葵はああ、と頷いて微笑む。
「おかげでよく眠れたよ。昨日は本当に助かった。ありがとう、瑞煕。」
その言葉を聞き、瑞煕も安心したような笑顔を浮かべる。そしていつものように二人並んで朝食の準備を始めた。
やがて、眠たそうな目をこすりながら遷己が食堂に姿を現す。バイトを始めてから遷己の生活習慣に多少の改善はみられるものの、未だ朝には弱いようだ。
普段通り食事を済ませ、瑞煕は高校へ、遷己はバイトへそれぞれ出かけてゆく。二人を見送り、祷葵が研究室にこもり始めるのは大体午前十時をまわる頃だ。
いつものようにパソコンの電源を入れ、机の上の書類を片付ける。松葉杖をつきながら片手で器用に作業を進めて行くと、祷葵の耳に新着メールを知らせる通知音が飛び込んできた。ゆっくりとパソコンに近づき、メールを開いて祷葵は息をのむ。
「これは・・・!」
周囲の書類を巻き込み、松葉杖が派手な音を立てて倒れる。白い紙がひらひらと舞い、床を滑る。
しかし、いずれも祷葵の視界には入らない。眼鏡の奥の瞳は見開かれ、モニターの一点を捉えている。
差出人の名前は、古斑。
そして、その下に続く本文に目を通し、祷葵は机の上についた両手を強く握りしめた。
メールに書かれているのは一文のみ。しかし、それだけで十分だった。

<四年前のおさらいをしよう>

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第6話 宵月

1.

時刻は夜の8時をまわっている。この日はバイトが休みらしい遷己が、河拿研究所の食堂でそわそわと動き回っていた。その近くの机では、祷葵が時計と手元のコーヒーに視線を往復させている。コーヒーはマグカップに並々と注がれているが、とっくに冷めきっているようだ。痺れを切らした遷己がおもむろに口を開いた。
「やっぱりおかしいって!瑞煕が何の連絡もしないでこんなに遅いこと今まで無かったろ。」
「・・・メールも返さないし、電話にも出ないな。今日は古斑からの襲撃もないはずだ。何か別の事件や事故に巻き込まれている可能性もあるな・・・。」
「俺、ちょっと瑞煕の高校に電話かけてみる!」
そう言うやいなや、遷己は携帯電話を取り出してアドレス帳から高校の電話番号を探す。二、三度の呼び出し音の後に中年の男性の声が聞こえてきた。
『お電話ありがとうございます。遠野馬高等学校の若田が承ります。』
定型句の後に、遷己は自分が瑞煕の兄であること、瑞煕の帰りが遅いことを伝える。瑞煕が既に下校しているかどうかだけでも確認して欲しい、と伝えると少々お待ちください、と電話の声。しばらく遷己の耳に軽快な音楽が流れ込んでくる。
数分の沈黙の後、保留音が途切れた。
『大変お待たせいたしました。瑞煕さんのクラスは放課後、球技大会の練習でグラウンドを使用していたのですが、下校の確認は取れておりません。』
「どういうことですか?」
『昇降口の下駄箱に靴はないのですが、更衣室側の下駄箱に女子生徒の靴が残っています。これが瑞煕さんのものかどうかはわからないのですが・・・』
「待っててください今行きます!」
教師の話を遮り、遷己は電話を切る。その顔には焦りが見えた。
「俺、ちょっと高校行ってくる!」
「あっ、おい!遷己!?」
祷葵の言葉も聞かず、遷己は食堂を飛び出した。足音が段々と遠ざかる。
溜息をひとつ吐いて、祷葵はすっかりまずくなったコーヒーを啜った。

自転車で山を飛ぶようにして下り、風のように町を走り抜ける。人通りの少なくなった道を、車道も歩道もお構いなしに突き進んでゆく。
やがて、暗闇に溶け込むような赤レンガの建物が見えてきた。遷己は迷わずその門をくぐり、灯りのついている窓の前に自転車を止めた。
その部屋は職員室らしい。広い室内にたくさんの机とパソコンが並べられている。その中におそらく電話の相手だろう、中年の男性の姿があった。窓をこんこんと叩くと、男性教師は遷己に気付いたらしく窓の横にある勝手口を開けた。
「すみません、先ほど電話した瑞煕の兄です。」
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ。」
小走りで遷己を誘導する教師の後へ続く。暗い廊下内を、懐中電灯の明かりだけを頼りに走り抜ける。渡り廊下を抜け、体育館の横にそびえ立っている大きな建物の前で教師は足を止めた。ここが更衣室なのだろう、入り口付近に大容量の下駄箱がある。奥は扉とカーテンで遮られているが、わずかに空いた天井付近のスペースから中の広さは容易に想像できた。

教師が懐中電灯で下駄箱を照らす。遷己もその光の先に視線を向けた。そこには一足の靴が仕舞われている。小ぶりな何の変哲もない黒いローファーだが、瑞煕が毎日それを履いて登校しているのを遷己は知っている。間違いなく瑞煕の靴だ、と教師に告げようと顔を上げた先にもう一足、誰かの靴が仕舞ってあるのが見えた。
「先生、あの靴は誰の?」
「あぁ、ついさっきもう一人生徒が戻らないと連絡を受けまして。瑞煕さんのクラスメイトなので、おそらく一緒にグラウンドを使用していたと思うんですが・・・。」
教師の声が不安気に曇る。電灯で照らされた男物の靴に、遷己も顔をしかめた。
瑞煕とクラスメイトの男が、二人揃って学校のどこかに残っている・・・?焦りと嫌な予感で胸がざわつく。一分一秒でも早く、瑞煕を助け出さなければ。遷己は更衣室を飛び出し、辺りを注意深く見渡した。教師も遷己の後ろから懐中電灯で辺りを照らす。
更衣室から階段を降りると、だだっ広いグラウンドとテニスコートに出るようだ。当時の瑞煕の足取りを追うように、グラウンドの先に視線を向ける。
端の方にあるのは体育倉庫だろう。しかし、使われていないはずの倉庫の窓から室内の電灯と思われる光が漏れていた。遷己の身体に悪寒が走る。
「先生、あれ!」
遷己の指差す方を見やり、教師も状況が飲み込めたようだ。二人顔を見合わせると、階段を駆け下り倉庫めがけて走りだした。

倉庫に閉じ込められてから、どれだけの時が流れたのか分からない。
寄り添いあって暖をとっていた瑞煕と閨登の体力もそろそろ限界だった。手足が凍えて痛みが走る。弱弱しく吐く息は白く曇り、呼吸するたびに頭がじんじんと霞んだ。
「・・・河拿さん、大丈夫?」
本日何度目かの問いに瑞煕は顔を上げ、小さくうなずく。しかし、その表情は辛そうだ。
完全なる静寂に包まれた倉庫内は、定期的に閨登が瑞煕に声をかける以外に何の物音もしない。そして、何度目かの静寂が訪れようとしていた矢先、耳が痛くなるような静けさの奥から微かに足音が聞こえてきた。その足音は、明らかに倉庫へ向かっているようだ。瑞煕と閨登が顔を見合わせる。
次の瞬間、倉庫の扉が激しく音を立てた。
「鴕久地!河拿!無事か!?」
「瑞煕!大丈夫か!」
扉を叩く音と同時に、自分たちの名前を呼ぶ声が聞こえる。瑞煕と閨登の顔に笑顔が戻った。
ふらつく足で立ち上がり、閨登が声を上げる。
「先生!鴕久地です!河拿さんも無事です!」
「よし!今開けるから待ってろ!」
ガチャガチャと扉の鍵が外される音がする。瑞煕の手を掴み、ゆっくりと立ち上がらせる。ふらつく瑞煕の身体を支えて扉の前まで進むと、倉庫の扉ががたつきながらも開かれた。心配そうな顔の教師と遷己が倉庫の中へと飛び込んでくる。
「瑞煕!」
遷己が、閨登の肩に身体を預けている瑞煕をしっかりと抱きとめる。安堵感から、全身の力が抜けて膝から崩れ落ちそうになった閨登の身体を男性教師が受け止めた。
「鴕久地、大丈夫か?河拿さん、とりあえず二人を保健室へ!」
その言葉に遷己もうなずき、すっかり冷たくなった妹の身体を支えて教師の後に続いた。

2.

暖められた保健室で毛布を借り、瑞煕と閨登はようやく休息を得ることができた。冷え切った身体が徐々に感覚を取り戻してゆく。ストーブを取り囲むように4人座り、教師が閨登に事の発端を尋ねた。
教師の質問にひとつひとつ答えつつ、閨登が一部始終を話し終えると、その日は遅いということもあり解散となった。
更衣室から上着と制服、鞄などを回収して帰路につく。時刻は夜の9時半になろうとしている。底冷えするような寒さが温まった三人の身体を襲った。
「鴕久地って言ったっけ。瑞煕が二回もお世話になっちまったな。」
高校の門を抜けたところで、遷己が足を止める。頭をくしゃくしゃと撫でられ、瑞煕もぺこりと頭を下げた。
「いえ、こちらこそ。河拿さんが励ましてくれたお陰で頑張れたんです。助けにきてくださってありがとうございます。」
閨登も深々と頭を下げる。まあな、と胸を張り、遷己が口を開いた。
「ところで、お前んちどこ?もう遅いし送ってくよ。」
「えっ!?いや、いいです。一人で帰れます。」
慌てた様子で閨登が首を振った。一歩、二歩と後ずさる閨登の背後に自転車で回り込み、逃がすまいとその肩に手をおいた遷己は満面の笑みを浮かべている。
「遠慮すんなって!夜の一人歩きは男の子でも危ないんだぞ。なっ!」
抗えないほどの笑顔に、閨登も観念したのか「はい・・・」と小さくうなずいた。よしよし、とその肩を二度、三度と叩く満足そうな遷己とは対照的に、閨登の顔は暗く沈んでいた。不思議そうに瑞煕が覗き込むと、困ったような笑顔を浮かべる。「行くぞー!」と元気な遷己の声を合図に、二人並んで歩きだした。
静かな夜道に、自転車のタイヤがカラカラと回る音が響く。人も車もすっかり通らなくなった道を、瑞煕を真ん中に挟むようにして三人並んで歩く。
先程から遷己は他愛もない話や質問を閨登に投げかけ、会話はほぼ途切れることなく続いている。普段、まったく接点のない二人が楽しげに話している光景を、瑞煕はくすぐったいような不思議な気持ちで見つめていた。
普段、バス通学をしている閨登の家は高校から大分離れたところにあるらしい。寒空の下を四十分ほど歩き続け、ようやく家に辿りついた頃には夜の10時をとっくに過ぎていた。
塀に囲まれた二階建てのその家は、細部まで手入れが行き届いており、脇から見える庭もそれなりの広さがあるようだ。敷地の広さでは河拿研究所に遠く及ばないが、荒れ放題の研究所と比べこの一軒家は随分と立派に見える。玄関の扉の前で、閨登は二人に向き直った。
「ここです。送っていただいてありがとうございました。」
「いえいえどういたしまして。それにしてもお前んちすっげーなぁ。金持ちなのか?」
普段荒れ果てた建物ばかり見ている兄妹が、目を見開いて呆然としていた。慌てて閨登が首を横に振る。
「そんなことないです!普通の家ですよ!」
「えーそうか?少なくとも俺達の家よりかは立派だけどなぁ。」
瑞煕もこくこくと頷く。もう一度、閨登が否定の言葉を口にしようとした瞬間、その背後でガチャリ、と音を立て扉が開いた。続いて聞こえてきた声に、閨登の顔が強張る。

「閨登?帰ったの?」
ひやりとした冷たい声の持ち主は、扉の中から現れた中年の女性だった。上品そうな身なりに、化粧や髪もきちんと纏めているため幾分か若い印象を受ける。今まで見せたことのない暗い表情を浮かべて、閨登がゆっくりと声のした方を振り返る。若干ヒステリックな女性の声がその頭上にふりかかった。
「こんな時間まで、どこで何をしていたの!?」
「・・・すみません・・・。」
力なく閨登がうな垂れる。その様子を見ていた遷己が、閨登を庇うように押しやり前に出た。
「ちょっと、そんな言い方ないだろ!こいつがどんな大変な目にあってたのか知らないのかよ?」
「遷己さん!」
慌てて閨登がなだめようとするも、続いて口を開いた女性にその先を遮られた。
「何ですかあなた達は!?人の家に事に口を挟まないでちょうだい!」
「俺達はこいつの友達だよ。そんな頭ごなしに怒る前にちゃんとこいつの話聞いてやってもいいだろ!」
「友達!?あなたこんな遅い時間まで友達と遊び歩いてたっていうの?」
女性の怒りの矛先が再び閨登に向いた。「違…」と言いかけ、閨登は言葉を飲み込み女性から目を逸らす。大きな溜息をつき、女性が続けた。
「・・・とりあえず、中に入りなさい。」
そう言い放ち、閨登の返事も待たずに扉は大きな音を立てて閉まった。張り詰めた糸が切れたように、閨登は小さく息を吐く。依然納得がいかない様子の遷己が声を荒げた。
「鴕久地、何で言い返さないんだよ!自分の親だろ?」
「・・・ああなってしまったら、大人しく怒られてた方が楽に済むんですよ。」
諦めたような笑顔を浮かべ、閨登は二人に向き直った。ありがとうございました、と頭を下げて扉の向こうへ消えてゆく。閨登が今まで他人を家に寄せ付けなかった理由が、瑞煕には少し分かったような気がした。

帰り道、遷己は先ほどよりも口数少なく自転車を押していた。二人の脳裏には同じ光景が焼きついたままだ。
「あいつも色々大変なんだな・・・。」
そう遷己が漏らすと、瑞煕も下を向いたまま小さくうなずく。学校ではいつも明るい笑顔を浮かべている閨登の、あんな暗く沈んだ表情に瑞煕はただ困惑していた。
二人の間に流れた沈黙を破ったのは、けたたましく鳴りだした遷己の携帯電話だった。気だるそうに携帯電話を取り出し、ディスプレイに表示された名前を見て遷己は足を止めた。不思議そうに首を傾げる瑞煕に携帯電話を見せると、彼女も同様に目を見開いた。
「しまった、連絡するの忘れてたな。」
ばつの悪そうな笑顔を浮かべ、遷己が携帯の通話ボタンを押す。耳に当てる前に電話の向こうから心配そうな祷葵の声が聞こえてきた。
『遷己か!?大丈夫なのか?瑞煕は?』
「祷葵ごめん!連絡するのすっかり忘れてた。瑞煕は無事だぜ。今、瑞煕の友達を家に送って行ったとこ。もうそろそろ研究所に着くよ。」
まくしたてるように言葉を続ける祷葵を安心させるように明るく言う。電話の向こうから、力の抜けた祷葵の溜息と何かが倒れるような物音が聞こえる。大方松葉杖でも落としたのだろう、棚にもたれかかっている祷葵の姿が容易に想像できた。
『・・・もう少しで捜索願いを出すところだったぞ・・・。』
「大袈裟だなぁ祷葵は。とにかく、細かい事情は研究所着いたら話すよ。」
『あぁ、わかった。気をつけて帰れよ。』
その言葉を最後に電話は切れた。遷己も携帯電話を閉じ、瑞煕に向き直る。
「祷葵が寂しくて死にそうらしい。瑞煕、急いで帰るぞ。後ろに乗れ。」
そう言って自転車にまたがり、後ろをぽんぽんと叩いた。くすくすと笑いながら、瑞煕も自転車の後ろに腰かける。

二人を乗せた自転車は夜風を切り、やがて月明かりに照らされて怪しげに光る山の中へと消えてゆく。頬を撫でるピリピリとした痛みが、冬の訪れを感じさせた。

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第5話 秋晴れ

1.

赤いレンガの建物が眩しいくらいの日ざしを浴びてたたずんでいる。
11月だというのに、まるで真夏日のような青空に誘われてグラウンドやテニスコートは学生たちで溢れている。
瑞煕がここ、遠野馬高校に通い始めてから2カ月が経った。初めて経験する高校行事である球技大会があと2週間後に迫っていることもあり、学校全体が独特の熱気に包まれている。
ここ最近は古斑の刺客も姿を現さず、瑞煕も高校生活に専念できているようだ。祷葵の話だと、古斑があの異形を送り込んでくるのは数カ月に一度くらいの頻度らしい。拳銃ひとつで落とせるような固体は未だ研究所に姿を見せるが、以前のような巨大な影はあの日以来襲撃しては来ない。そろそろだ、と祷葵は言うが瑞煕はそれよりも目の前の球技大会で頭がいっぱいだった。
初めてのクラスメイト、初めての友達、初めての高校行事。秋晴れの日射しに照らされたグラウンドも、瑞煕にはスポットライトで輝くステージのように見えた。
球技大会の種目はバレーボール。クラス対抗戦を男女分かれて行う。
練習場は体育館とグラウンドをローテーションして使用する決まりになっている。瑞煕たちのクラスはこの日、授業全行程が終わった放課後にグラウンド使用の許可を得ていた。
時計の針が指し示す午後3時半。鳴りだしたチャイムに合わせ、担任教師からホームルーム終了の言葉が告げられる。それと同時に、教室中が火がついたように騒がしくなった。
皆、この後に控えている球技大会の練習に意欲を示しているようだ。無論、瑞煕もその中の一人。慣れない手つきで慌ただしく机の中のものを鞄に詰め込んだ。
「みんな気合い入ってるね。頑張ってね。」
隣で同じように机を片付けていた閨登が困ったように笑っている。運動神経に恵まれている閨登だが、本人はそこまで運動が好きではないことをこの2カ月で瑞煕は知っていた。笑顔でガッツポーズを返し、「鴕久地くんも」と口を動かす。閨登が机を片付け終わるのを待たずして、クラスの男子達が群れをなして机の周りに集まってきた。
「鴕久地早く早く!次の球技大会の勝敗はお前にかかってるんだからな!」
「ちょっと、まだ片づけてな・・・」
「いいから行くぞ!早くしないと時間なくなる!」
閨登の言葉を遮り、男子生徒がほぼ強引にその腕をつかむ。他の生徒が机上に残った教科書や体操着を回収し、あっという間に閨登は連行されていった。呆気にとられた瑞煕がその光景を見ていると背後から気合いの入った声が聞こえてきた。
「河拿さん、準備できた?うちらも行くよっ!」
背中をぽん、と叩かれ瑞煕も笑顔で頷き席を立った。クラスの女子たちの談笑にリアクションをとりつつ更衣室に向かう。ジャージに着替え、グラウンドに出ると肌寒い気温と熱いほどの日射しを感じた。
先に教室を飛び出していった男子たちは皆一様にえんじ色のジャージに身を包み、コート内をせわしなく走り回っていた。無理やり引きずられていった閨登も、真剣な表情でボールを追いかけている。普段の柔和な表情からは想像つかないほどの鋭い視線に、瑞煕は胸がきゅう、と締め付けられるような感覚を覚えた。よっぽど日射しが強いのだろう、身体が一段と火照っている。その熱を冷ますように、冷たい風を切って瑞煕はクラスメイトの後を追いかけた。

11月の日暮れは早い。3時間も練習すると、辺りはずいぶんと暗くなっていた。グラウンドを囲むように設置された照明が一斉に点灯する。眩しいほどの灯りに照らされ、2年A組の生徒たちはやっとで今の時刻を把握したようだった。見渡すと、自分たちの他に練習しているクラスはいない。
「マジで?もうそんな時間?」
「うちらもそろそろ片づけなきゃ。」
息を荒げながら、瑞煕も空を見上げた。眩しいほどの照明で星も月も見えず、普段の夕刻よりもっと暗く、遅い時刻のように感じる。ざわざわと周りから不安げな声があがった。
「どうしよう、今何時?塾に行かなきゃ。」
「私もバイトが・・・。ごめん、片づけ誰かよろしく!」
一人、二人と申し訳なさそうに手を合わせ走り去ってゆく。ちらり、と男子の方を見るとじゃんけんで片づけ役を決めているようだ。残った女子に向き直り、その内の一人の袖をくいくい、と引っ張る。
「ん?どうしたの河拿さん。」
瑞煕はバレーボールを拾い上げると、自分、体育倉庫の順番に指差した。
「えっと、河拿さんが後片付けしてくれるってこと?」
笑顔でこくこくと頷いた。いいの?と申し訳なさそうに尋ねる女子にもう一度頷いて見せる。塾やバイトで忙しいクラスメイトたちの役に立ちたい。その一心だった。
「ごめんね、ありがとう河拿さん!」
「今度なんか奢るから!」
口々にお礼を言って去っていく。その後ろ姿を見送り、瑞煕もコートの後片付けを開始した。先程までの熱気や賑やかさも夜風で冷まされたようだ。身体の汗もひき、秋の肌寒さだけが残った。
両手にボールを抱え、肩にネットをかけてよろめきながら体育倉庫に向かう。倉庫が近付くにつれて、その入り口が閉められているのがわかった。両手がふさがっているこの状況では扉が開けられない。歩を緩めつつ途方にくれていると、後ろから聞きなれた声が聞こえた。
「河拿さん?どうしたの?」
振り返ると、瑞煕と同じようにネットを肩にかけ、ボールを二つ小脇に抱えた閨登が近付いてきた。冷え切った身体に一瞬で熱が戻る。運動した余韻か、心臓が激しく脈打っているのがわかった。
「一人で片づけ?他のみんなは?」
小走りで駆け寄ってきた閨登が瑞煕の隣に並ぶ。黒い大きな瞳が瑞煕の顔を覗き込んだ。瑞煕は両手に抱えたボールを閨登に掲げて見せ、「引き受けた」と口を動かした。
「片づけ引き受けたの?偉いね!」
そう言って満面の笑みを浮かべる。瑞煕も得意げに胸を張り笑顔を返す。「鴕久地くんは?」と口を動かすと、閨登は教室で見せたような困った笑顔を浮かべた。
「僕はじゃんけんで一人負けしちゃったよ。早く終わらせて僕らも帰ろう。待ってて、今開けるから。」
そう言って片手で器用に重たい体育倉庫の引き戸を開ける。閨登の後ろから中を覗き込むと、倉庫内は足元も見えないくらい真っ暗だった。
「真っ暗だね・・・。どこかに電気のスイッチがあるはずだけど。足元気をつけてね。」
閨登の後に続いてゆっくり倉庫内を進む。倉庫の入り口から入り込む微かなグラウンドの照明が段々遠くなっていく。スイッチを探りながら壁つたいに歩くもなかなかそれらしきものは見当たらなかった。
倉庫内はやがてグラウンドの光も届かなくなり、完全な闇で覆われてしまった。申し訳程度に取り付けられている小窓は、外の光を取り入れるにはあまりにも心許ない。
閨登の手がゆっくり壁をつたう音と、床を擦る二人の靴音だけが、倉庫内でやけに大きく響いた。

ふいに、奥の方でガタンと大きな物音があがった。二人同時にピタリと足を止める。
かすかに、何かが動いているような気配がする。張り詰めた緊張感の中、痛いほど激しく脈打つ心臓の音が、頭にガンガンと響いていた。
「・・・今、何か・・・。」
そう閨登が言いかけた瞬間、奥の物陰から何かが勢いよく飛び出してきた。足場の悪い倉庫内をバタン、ガタンと激しい物音をたてて走り回る。とっさに瑞煕は抱えていたボールを落とし、目の前の背中にしがみついた。振り返った閨登が目にしたものは、倉庫の入り口に向かって走り去る小さな影だった。長い尻尾をしなやかに揺らし、四本の足は音もなく倉庫の床を蹴りあげる。
「ねこ・・・?」
その声に、瑞煕はゆっくりと顔を上げる。暗闇の中、閨登と目があった気がした。身体中の力が一気に抜け、二人同時に安堵の息を漏らす。
しかし、再び聞こえてきた物音に、再び場は緊張感に包まれた。ずずず、と何かが擦れる音。嫌な予感に全身がざわつく。何が起こったのか把握する間もなく二人は轟音と衝撃に飲み込まれた。

2.

いきなり聞こえてきた物音に、グラウンドを見回っていた教師は懐中電灯片手に走り出した。まだ残っていた生徒がいたことに驚きと焦りを感じつつ体育倉庫に向かう。
入り口に足を踏み入れようとした瞬間、足元を何かが駆け抜けた。手にしていた電灯で行方を追うと、一匹の猫が慌ててグラウンドから走り去っていくのが見えた。
「なんだ猫か・・・。驚かせやがって。」
深い脱力感が襲う。教師はそのまま重たい引き戸を閉め、直後ガチャリと音を立てて倉庫の鍵がかけられた。

閉ざされた倉庫内はしんと静まり返っていた。倉庫の隅にうず高く積み上げられていたマットがなだれ、一角を白く埋め尽くしている。しばらくの静寂の後、マットの一部がわずかに動いた。微かなうめき声と共にマットがゆっくりと持ち上げられる。
先に上体を起こしたのは閨登だった。両手を床につき、背中でマットを押し上げる。重たいマットが横にずれ、閨登の体がふっと軽くなる。ひんやりした空気が汗ばむ体を冷ました。
「・・・河拿さん、大丈夫?」
腕の間に組み敷く形になっている瑞煕に声をかけた。マットが崩れ落ちてきた瞬間、とっさに瑞煕を腕の中に抱え込んだものの、その後の記憶が途切れてしまっている。体に衝撃が走り、気がついたら床に伏して思うように動けなくなっていた。体から痛みが引くのと同時にぼんやりしていた頭も鮮明になっていく。
閨登に手を引かれ、瑞煕もゆっくりと上体を起こした。ようやく暗闇に慣れた視界に、心配そうな顔の閨登が映る。どこか痛いところは?という閨登の問いに、瑞煕は首を横に振ってこたえた。良かった、と閨登が深く息を吐く。
目を凝らして辺りを見渡すと、崩れたマットの横に電気のスイッチらしきものが見えた。ちょっと待ってて、と瑞煕に声をかけて閨登はスイッチに手を伸ばした。
暗闇に慣れた目に刺すような痛みが走る。手のひらで目をかばいつつ、ゆっくりと光に慣らす。
散乱しているマットとバレーボール。マットに半分埋もれるようにして座っている瑞煕の姿が目に入る。明るくなった倉庫内を閨登は改めて見渡す。自分たちがつたってきた壁を、入り口に向かって視線を辿らせる。こんな入り口から離れた場所にしか電気のスイッチがないのはさすがに不自然だと感じたからだ。
しかし、見渡した壁にはスイッチらしきものは見当たらない。そして、代わりに信じ難い光景が目に飛び込んできた。
「・・・えっ?」
思わず声をあげる。開けたままにしておいたはずの倉庫の扉が閉ざされている。嫌な予感が脳裏をよぎり、閨登は倉庫の扉めがけて走りだした。不思議そうに小首を傾げ、瑞煕もその後を追う。飛びつくような勢いで閨登が扉を横に引く。ガタン、ガタンと大きな音を立てるものの、扉はびくとも動かなかった。
「そんな・・・鍵がかけられてる・・・。」
その言葉に、瑞煕も息を飲んだ。不安で胸がざわつく。力いっぱい扉を叩き、閨登が声を張り上げた。
「すみません!誰かいませんか!?」
しばらく扉を叩き続けても、外からは何の反応も返ってこない。諦めて後ろを見ると、不安に顔を曇らせている瑞煕がいた。
天井付近にとりつけられた窓はあまりにも小さく、人が一人通れるほどの幅はない。しかし、四方にまんべんなく取り付けられているため、この窓から漏れる光に誰かが気付けばいずれ救助が来るだろう。携帯電話なども全て更衣室に置いてきてしまっているため、こちらから助けを呼ぶ方法は見当たらない。
「・・・とりあえず、助けが来るのを待とう。大丈夫、絶対に誰か気付いてくれるよ。」
瑞煕の不安を取り除こうと出来るだけ明るく言う。その言葉に、瑞煕も頷き微笑んだ。
床に散乱したマットの上に並んで腰かける。倉庫内の室温は凍えるほどだ。しかし、外から感じる刺すような寒さとは裏腹に、体の芯から湧き上がる痺れるような熱を瑞煕は感じていた。

どれくらいの時間が経ったのだろう。外の様子も分からず、時計もなく、倉庫の中はまるで時間が止まっているかのような静けさだ。助けがくる気配は未だになく、マットの上で石のようにじっと寒さに耐える。風が吹かないのが唯一の救いと言えるだろう。
二人の間には深い沈黙が流れている。手足の感覚がなくなり、頭は霞がかったようにぼんやりしている。少しでも感覚を取り戻そうと、瑞煕は氷のように冷たくなった両手を擦り合わせた。
「大丈夫?」
隣から聞こえた声に、瑞煕の体温が少し戻る。顔を上げると心配そうな顔の閨登と目が合った。小さくうなずくと、閨登はおもむろに羽織っていたジャージを脱いで瑞煕の肩にかけた。
「良かったら、これ着てて。ごめん、ちょっと汚れてるかもしれないけど。」
そう言って照れたように笑う。瑞煕のより一回り大きいジャージは、あっという間に瑞煕を温もりで包み込んだ。「ありがとう」と口を動かすと、閨登も柔和な笑みを浮かべた。
しかし、半袖一枚になった閨登は見るからに寒そうだった。瑞煕はおもわず手を伸ばし、半袖から伸びた閨登の腕に触れる。心配そうに眉をひそめ、「つめたい」と口を動かす。
「ぼ、僕なら大丈夫だよ。寒さには強いほうだから。」
閨登の顔が少し紅潮しているのがわかった。触れている腕がじんわりと温かくなってゆく。少しためらい、瑞煕は「くっついてもいい?」と口を動かす。うまく読み取れなかったのだろう、閨登が聞き返すのとほぼ同時に瑞煕は腰を上げた。閨登のすぐ隣に移動してぴったりと身体をくっつける。触れ合う肩で、腕で、足で、体温を共有する。火がついたように熱くなった頬を見られたくなくて、瑞煕は体育座りしたひざの間に顔を埋めた。
「・・・ありがとう、河拿さん。」
閨登が声をかけると、俯いたまま瑞煕が小さくうなずく。身体が外から、中から温まっていくのがわかる。
倉庫に閉じ込められているこんな絶望的な状況でも、悲観することなくいられるのは一重に隣で体温を分けてくれているクラスメイトのおかげだろう。
もう一度「ありがとう」と声に出さずに呟き、閨登はゆっくりと目を閉じた。